2008年 09月 22日
出来事は「記録されるため」に存在するのか |
G8 2008をめぐる映像+音、あるいは集団的創造のプロセス
http://www.remo.or.jp/j/news/080915_amg2008.pdf
京都三条の同時代ギャラリーにて行われていた上記の展覧会を観た。9/13に京都メディフェス(第6回市民メディア全国交流集会)に行ったついでに巡ったんだけど、この日の収穫はこれが一番大きかったように思う。
(↓↓展覧会チラシテキストより引用↓↓)
G8 洞爺湖サミットの世界同時行動デー、7 月 5 日。
札幌では一万人のピースウォークが行われ、世界各地でもデモが行われた。この日に撮影された、様々な人々による沢山のビデオフッテージ。多様な視点から記録されたもの、そしてそれらの共有・蓄積が映し出す世界。2007 年ハイリゲンダム(独)以降、
映像を媒介とした情報・記憶の共有が、現場においてますます大きな役割を果たしている。これは'60 年代の映画/運動を想起させる一方で、まったく新しい映像の展開を感じさせるものだ。このプロセスの、実験的な再構成を試みる。
えー、ざっとどんな内容かというとこんな3つのコーナーに分かれてました。(ほんとにざっとの説明です。)
(1)G8 洞爺湖サミットの世界同時行動デー7月5日に実際に世界津々浦々で行われた様々なデモの様子や、反G8的パフォーマンスや映像作品などを5台のモニターとそれらのうちの1つを順々に大きいスクリーンで上映。
(2)G8 洞爺湖サミットの世界同時行動デー7月5日の日の札幌デモについて、主要マスメディア局と新聞が取り上げた報道内容の閲覧場。
(3)G8 洞爺湖サミットの世界同時行動デー7月5日の日の札幌デモに参加した市民が各々に記録したデモの様子を10台のテレビモニターで時間軸を合わせて上映。(記録されていない時間帯二関してはタイムカウンターのみの表示)
※ちなみに、この展覧会は基本的に撮影記録はアウトだったんですが、現場担当者の方に、「この展覧会についてブログで発信したい」との旨を伝えて許可をいただきました。
この企画は、ある意味、反G8運動の「紹介展示」のような面ももちろんあるとは思うんだけど、これは間違いないく、それ以上に、メディアの在り方を扱った「展覧会」だったと思います。
もし「紹介展示」であるならば、それは市民祭り的なパネル展示でもこの運動についてなんらかの言及をすることができたと思うけども、やはりそれは「展覧会」という形をとっている以上、その展示されている状態がしっかりと「表現」としてアウトプットされていないといけないということになると思うし、実際、まぎれもなく、これは新たな映像表現に関するアウトプットだったと感じました。
うまく言えないんだけど、なんだろ、誤解を恐れずに言うと、この場合、運動の中身は展覧会のマテリアルでしかない。もちろん運動にまつわる思想そのものも大事ではあるのだけど、モチーフではない。
重要なのは、それをどう記録によって切り取ったのか。そこに新たな映像表現と、まさにタイトルどおりの市民(集団)による創造的行為の結集のカタチが見て取れることだと思った。
そこで、すごく、勝手な妄想をしてしまったのです。
世の中のあらゆる事件、出来事が、すべて、「記録をされるために意図的に生み出されたもの」だとしたら、どうなるのだろうか。
この場合だと、「デモがあったから、記録をする」のではなく、「記録をするために、デモをする」。
もっと言えば、この同時代ギャラリーの展覧会の開催がなんなら最終目的で、そのためにデモを意図的におこして記録をした。「やったー!ええ、作品ができた!」みたいな。
そう考えると、このデモは、メディアに関する新たな接し方や、記録をして発信することのリテラシーをあげるための、「レッスン」であったり「ドリル」であると捉えることができないかな。
ものすごい不謹慎なことをいうかもしれないけど、それだったら、その目的のために、劇的な事件がもっと勃発したら(っていうより、勃発させたら)いいのかもしれない。その方が、悲劇の数も増えるかもだが、それと反比例して、リテラシーはどんどん上がる。
(僕の妄想上の理屈です。決して多くの人が不当に権力に捕まったり、死人が多数でたりすることを望んでいるわけではないので、そのあたりはご理解を。)
また話は変わって、このメディアに関する新たな一方向性について。大きな物語をもたない映像表現のオルタナティブについて。
会場にいた担当の方とも色々雑談をしていたのだが、わかりやすい話、ネオリベ乗りのマスメディアに対して、例えば、マイケルムーアみたいなおっちゃんが違う方向性を示したとしたら、それはそれでオルタナティブな一方向性なんだけど、でもそれはもう一つの物語を作って「やっぱ本当はこっちよね」って言ってしまっているところもあって。
でも今回の展覧会は、方向性こそあれど、そこに大きな物語は感じられないというか、(でもこれも言葉の問題、考え方の問題で、その「方向性」がもうすでに「物語」だ〜!って言ってしまえばそれはそうかもしれんし)、いわゆる、映像の中身、コンテンツの批評に関しては、ひとまず無効なんだなと思う。方向性の視点が、コンテンツではなく、コンテンツの「置き方」にあるというか。
だから、そこって、映像のオルタナティブとしては、今までにない、新たな批評性を勝ち取らなあかんのかなとか、「いやはや、そんなもん勝ち取らなくても、勝手にやってたらええやん、むしろ勝ち取ってしまったら、また型にはまるで」みたいな話になんのかなとかー、うー、うーん。
いや、頭がすっきりはしてないですが、とりあえずこれを書く行為自体が、なんらかの発信につながっていることを祈るばかりでございやす。
http://www.remo.or.jp/j/news/080915_amg2008.pdf
京都三条の同時代ギャラリーにて行われていた上記の展覧会を観た。9/13に京都メディフェス(第6回市民メディア全国交流集会)に行ったついでに巡ったんだけど、この日の収穫はこれが一番大きかったように思う。
(↓↓展覧会チラシテキストより引用↓↓)
G8 洞爺湖サミットの世界同時行動デー、7 月 5 日。
札幌では一万人のピースウォークが行われ、世界各地でもデモが行われた。この日に撮影された、様々な人々による沢山のビデオフッテージ。多様な視点から記録されたもの、そしてそれらの共有・蓄積が映し出す世界。2007 年ハイリゲンダム(独)以降、
映像を媒介とした情報・記憶の共有が、現場においてますます大きな役割を果たしている。これは'60 年代の映画/運動を想起させる一方で、まったく新しい映像の展開を感じさせるものだ。このプロセスの、実験的な再構成を試みる。
えー、ざっとどんな内容かというとこんな3つのコーナーに分かれてました。(ほんとにざっとの説明です。)
(1)G8 洞爺湖サミットの世界同時行動デー7月5日に実際に世界津々浦々で行われた様々なデモの様子や、反G8的パフォーマンスや映像作品などを5台のモニターとそれらのうちの1つを順々に大きいスクリーンで上映。
(2)G8 洞爺湖サミットの世界同時行動デー7月5日の日の札幌デモについて、主要マスメディア局と新聞が取り上げた報道内容の閲覧場。
(3)G8 洞爺湖サミットの世界同時行動デー7月5日の日の札幌デモに参加した市民が各々に記録したデモの様子を10台のテレビモニターで時間軸を合わせて上映。(記録されていない時間帯二関してはタイムカウンターのみの表示)
※ちなみに、この展覧会は基本的に撮影記録はアウトだったんですが、現場担当者の方に、「この展覧会についてブログで発信したい」との旨を伝えて許可をいただきました。
この企画は、ある意味、反G8運動の「紹介展示」のような面ももちろんあるとは思うんだけど、これは間違いないく、それ以上に、メディアの在り方を扱った「展覧会」だったと思います。
もし「紹介展示」であるならば、それは市民祭り的なパネル展示でもこの運動についてなんらかの言及をすることができたと思うけども、やはりそれは「展覧会」という形をとっている以上、その展示されている状態がしっかりと「表現」としてアウトプットされていないといけないということになると思うし、実際、まぎれもなく、これは新たな映像表現に関するアウトプットだったと感じました。
うまく言えないんだけど、なんだろ、誤解を恐れずに言うと、この場合、運動の中身は展覧会のマテリアルでしかない。もちろん運動にまつわる思想そのものも大事ではあるのだけど、モチーフではない。
重要なのは、それをどう記録によって切り取ったのか。そこに新たな映像表現と、まさにタイトルどおりの市民(集団)による創造的行為の結集のカタチが見て取れることだと思った。
そこで、すごく、勝手な妄想をしてしまったのです。
世の中のあらゆる事件、出来事が、すべて、「記録をされるために意図的に生み出されたもの」だとしたら、どうなるのだろうか。
この場合だと、「デモがあったから、記録をする」のではなく、「記録をするために、デモをする」。
もっと言えば、この同時代ギャラリーの展覧会の開催がなんなら最終目的で、そのためにデモを意図的におこして記録をした。「やったー!ええ、作品ができた!」みたいな。
そう考えると、このデモは、メディアに関する新たな接し方や、記録をして発信することのリテラシーをあげるための、「レッスン」であったり「ドリル」であると捉えることができないかな。
ものすごい不謹慎なことをいうかもしれないけど、それだったら、その目的のために、劇的な事件がもっと勃発したら(っていうより、勃発させたら)いいのかもしれない。その方が、悲劇の数も増えるかもだが、それと反比例して、リテラシーはどんどん上がる。
(僕の妄想上の理屈です。決して多くの人が不当に権力に捕まったり、死人が多数でたりすることを望んでいるわけではないので、そのあたりはご理解を。)
また話は変わって、このメディアに関する新たな一方向性について。大きな物語をもたない映像表現のオルタナティブについて。
会場にいた担当の方とも色々雑談をしていたのだが、わかりやすい話、ネオリベ乗りのマスメディアに対して、例えば、マイケルムーアみたいなおっちゃんが違う方向性を示したとしたら、それはそれでオルタナティブな一方向性なんだけど、でもそれはもう一つの物語を作って「やっぱ本当はこっちよね」って言ってしまっているところもあって。
でも今回の展覧会は、方向性こそあれど、そこに大きな物語は感じられないというか、(でもこれも言葉の問題、考え方の問題で、その「方向性」がもうすでに「物語」だ〜!って言ってしまえばそれはそうかもしれんし)、いわゆる、映像の中身、コンテンツの批評に関しては、ひとまず無効なんだなと思う。方向性の視点が、コンテンツではなく、コンテンツの「置き方」にあるというか。
だから、そこって、映像のオルタナティブとしては、今までにない、新たな批評性を勝ち取らなあかんのかなとか、「いやはや、そんなもん勝ち取らなくても、勝手にやってたらええやん、むしろ勝ち取ってしまったら、また型にはまるで」みたいな話になんのかなとかー、うー、うーん。
いや、頭がすっきりはしてないですが、とりあえずこれを書く行為自体が、なんらかの発信につながっていることを祈るばかりでございやす。
by yamatogawarecord
| 2008-09-22 00:39