2014年 07月 02日
コミュニティ難民の<島>理論のあらまし |
雑誌『ソトコト』で連載中の「コミュニティ難民のススメ ー表現と仕事のハザマにあること―」が、9月内に木楽舎から出版されそうです。これからとある方との特別対談の収録、仲間たちへの校正などを経て、仕上げていきます。
そこで今日は、そもそも連載読んでいない方の方が多いでしょうから、改めて定義と、ちょっとしたあらまし(!?)として、<島>に例えたお話をさせていただきます。書籍ではこの<島>理論はかなりポップなイラストになる予定。だいぶ僕の考えがええ感じにちゃんと伝わりやすくなるのではないかと期待大。
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こみゅにてぃ-なんみん【コミュニティ難民】 名
個人の生産活動において、特定の分野のコミュニティに重点的に属さず、同時に表現手段も拡散させることで、新たな社会との実践的な関わりを生み出す人々。
[補説1]
複数のコミュニティに分散的、流動的に属する状態、かつそれに伴い表現手段もが拡散的になる状態が長引くことで、自分の生産活動の分野の特定が困難となり、どのコミュニティに居てもそれなりの親密感を感じながら、疎外感も拭いきれない状態を経験することがある。
[補説2]
またそのことによって、活動初期はアイデンティティの揺らぎを元にした多少の戸惑いや精神の不安定さを伴うこともある。
[補説3]
しかし、徐々にその独特な浮遊感の心地よさに気づいてしまうことで逆に開き直り、意識的に定義の状態を目指すことになる。
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例えばAという<島>の価値観で仕事をしてきた者が、その価値観のみでは収まりきらない関心や問題意識を持ち、そのの中心から<岸辺>へと向かい、周りにあるやの様子を望遠鏡で覗き出す。するとからは「お前は毎日一体、<岸辺>でなにやってるの?」と言われ不思議がられる。そして思いきってへ<小舟>を漕ぎ出したはよいが、活動初期はの<岸辺>に突如辿り着いたばかりなので、からも「どっから来たの?ここはが来るところじゃないよ」と言われてしまう。そして、「どうしよう」と戸惑いながら<海上>をウロウロしていると、「<地上>にはいない(どのコミュニティにも所属できない)」という状況が発生するのだ。その時に生じる言葉にならない疎外感、自己の問題意識を伝えきれないもどかしさ、それらを抱えることで連鎖的に生じるアイデンティティの揺らぎ ―前述した「コミュニティ難民」の定義の[補説1〜2]― の状況を、僕は内面に生じる「難民」性、すなわち「内的難民性」という言葉で表わそうと思う。人種的、政治的、宗教的、経済的、身体的な理由において一見して孤立している状況にあるわけではなく、具体的にどこか別の地に避難をしているわけでもなく、ごく普通に生活し、働き、自己を他者に表現をしているように見えても、どこに対しても気持ちよく所属できていないような小さな戸惑いが日々積み重なることで、次第にはっきりとした内的難民性を抱えてしまうような状況。大袈裟に聞こえるかもしれないが、このような感覚を抱えてしまっている人は、読者の中に、あるいは周囲に一定数存在するのではなかろうか。
もちろん多分野を行き来しながら活動している人たちの誰もがこういった思いを経験するわけではないだろう。同じ状況にいるように見える人でも、四の五の言わず強靭な精神力で乗り越える人や、あるいは状況に対する自意識がほとんどない人も多く存在する。また、仮に「自分の専門ってなんなんだろう?」とか「なかなか一つのコミュニティに深くコミットできない(仲間に入れてもらえない!)」と思い悩んでしまったとしても、真に自分の価値観と合致する職業、コミュニティが見つかればそれはそれで幸運であろう。しかし、それはそんなに簡単なことではない。なぜなら、一度発生してしまった内的難民性には、一つのコミュニティの価値観や常識に従うことによってのみそのコミュニティから認められるという社会通念自体にそもそも違和感を持ってしまうという、構造的な問題があるからだ。とりわけ「郷に入っては郷に従え」的な感覚が蔓延する日本社会では、多くの人がそのシステム自体に無自覚であるため、その郷から洩れる動きをすれば、それは当然、「個人の性質」―「あの人は、根無し草だ」とか「彼は流れ者だから」と言ったように―、としてのみ捉えられてしまう。しかしそこでいじけていても仕方がない。必要なのは内的難民性そのものを肯定することである。その状況にあることを逆手にとって、[補説3]に書いたごとく、「逆に開き直り、意識的に新たな社会との実践的な関わりを生み出す」ことへと向かうこと。つまり、内的難民生を抱きしめつつ、コミュニティとコミュニティのハブになり、様々な人たちの関係性を再編集することによって、「狭間」にいるからこそ発見できるシーズを提案していく新たな仕事像を作り上げるのだ。それには、まずいくつかの思考転換とそれを促す日常的実践を行う必要がある。
書籍では、この思考転換と日常的実践を、僕、およびに仲間たちの在り様を通じて、迷走しながらも書いていってます。どうぞお楽しみに。まずは連載ぜひ読んでくださいね。
そこで今日は、そもそも連載読んでいない方の方が多いでしょうから、改めて定義と、ちょっとしたあらまし(!?)として、<島>に例えたお話をさせていただきます。書籍ではこの<島>理論はかなりポップなイラストになる予定。だいぶ僕の考えがええ感じにちゃんと伝わりやすくなるのではないかと期待大。
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こみゅにてぃ-なんみん【コミュニティ難民】 名
個人の生産活動において、特定の分野のコミュニティに重点的に属さず、同時に表現手段も拡散させることで、新たな社会との実践的な関わりを生み出す人々。
[補説1]
複数のコミュニティに分散的、流動的に属する状態、かつそれに伴い表現手段もが拡散的になる状態が長引くことで、自分の生産活動の分野の特定が困難となり、どのコミュニティに居てもそれなりの親密感を感じながら、疎外感も拭いきれない状態を経験することがある。
[補説2]
またそのことによって、活動初期はアイデンティティの揺らぎを元にした多少の戸惑いや精神の不安定さを伴うこともある。
[補説3]
しかし、徐々にその独特な浮遊感の心地よさに気づいてしまうことで逆に開き直り、意識的に定義の状態を目指すことになる。
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例えばAという<島>の価値観で仕事をしてきた者が、その価値観のみでは収まりきらない関心や問題意識を持ち、そのの中心から<岸辺>へと向かい、周りにあるや
もちろん多分野を行き来しながら活動している人たちの誰もがこういった思いを経験するわけではないだろう。同じ状況にいるように見える人でも、四の五の言わず強靭な精神力で乗り越える人や、あるいは状況に対する自意識がほとんどない人も多く存在する。また、仮に「自分の専門ってなんなんだろう?」とか「なかなか一つのコミュニティに深くコミットできない(仲間に入れてもらえない!)」と思い悩んでしまったとしても、真に自分の価値観と合致する職業、コミュニティが見つかればそれはそれで幸運であろう。しかし、それはそんなに簡単なことではない。なぜなら、一度発生してしまった内的難民性には、一つのコミュニティの価値観や常識に従うことによってのみそのコミュニティから認められるという社会通念自体にそもそも違和感を持ってしまうという、構造的な問題があるからだ。とりわけ「郷に入っては郷に従え」的な感覚が蔓延する日本社会では、多くの人がそのシステム自体に無自覚であるため、その郷から洩れる動きをすれば、それは当然、「個人の性質」―「あの人は、根無し草だ」とか「彼は流れ者だから」と言ったように―、としてのみ捉えられてしまう。しかしそこでいじけていても仕方がない。必要なのは内的難民性そのものを肯定することである。その状況にあることを逆手にとって、[補説3]に書いたごとく、「逆に開き直り、意識的に新たな社会との実践的な関わりを生み出す」ことへと向かうこと。つまり、内的難民生を抱きしめつつ、コミュニティとコミュニティのハブになり、様々な人たちの関係性を再編集することによって、「狭間」にいるからこそ発見できるシーズを提案していく新たな仕事像を作り上げるのだ。それには、まずいくつかの思考転換とそれを促す日常的実践を行う必要がある。
書籍では、この思考転換と日常的実践を、僕、およびに仲間たちの在り様を通じて、迷走しながらも書いていってます。どうぞお楽しみに。まずは連載ぜひ読んでくださいね。
by yamatogawarecord
| 2014-07-02 12:28