2014年 06月 06日
夢が天ぷらの衣のように自分を包んでくれる |
先日、雑誌「こころ」2014年4月号(平凡社)にてリレーコラムを寄稿させていただきました。テーマは「こころに残る言葉」ということで以下の文章を書いたのですが、改めてブログに転載して、ご高覧に供したいと思います。
----------
夢が天ぷらの衣のように自分を包んでくれる
子どもの頃、「将来の夢はなんですか?」と聞かれることがとても苦手だった。小学校の頃の作文集などを振り返ると、小学校一年生の時は、自分が一番仲が良かった友人といつまでも居たかったために「石井君と一緒に漫才師になりたい」と書かれていたし、小学校三年生の時は、父親の職業が眼鏡屋勤務だったのでただなんとなく「眼鏡屋になる」と書かれていたり。その問いに対して、その時の気分だけで適当に躱し続けてきた。正直、大人になった今でも、それはあまり変わらない。今思えば「なぜ、将来の夢を答えられないといけないのか?」あるいは「なぜ、そもそも夢なんて持たなければならないのか?」などと漠然と感じていたからだと思う。
もちろん夢を持つこと自体をあからさまに否定しようとは思っていない。問題は、大人たちが子どもたちに対して求めてくる夢がイコール「なりたい職業」という、暗黙の前提があることに違和感を感じてきたのだ。その前提を子どもたちもまた無意識に受け取り、周囲から浮いてしまわないように徐々に「スタンダードな夢の持ち方」を心がけてしまうようになるのかもしれない。例えば、作文で「野球選手になりたい」と書くことは夢とされても、「ずっと好きな野球を続けていきたい」と書くことは夢として認められにくいのだろうか。あるいは「宇宙飛行士になりたい」は夢で、「いつか宇宙船に乗ってそこで生活をしてみたい」だとどうだろう。思うに、夢というのはなりたい職業や仕事に関することに限られるものでは決してないはずだ。むしろ「こうなりたい」ではなく「こうありたい」と願うことも夢として受け入れられてもいいだろう。もちろん僕自身も含めて、子どもの頃にそこまで突っ込んだ疑問を言葉にできるわけではない。でも、世間から認められる「なにモノかにならねばならない」(別に有名になるといった意味ではなく、既存の職業とかに)という強迫観念を知らず知らずに刷り込まれ、「こういう状態=コトでありたい」と願う思考回路の芽が自然と摘まれてしまうという状況に対して、もっと目を向けてもいいのではなかろうか。
数年前、ある尊敬する編集者が、ラジオのトーク番組でこのようなことを語っていた。
「夢って現実の計画の話だけではなくって、“夢そのものをずっと見続けている状態でいられること”が、自分にとっての理想の夢ですね。」
「その状態でいられることによって、夢が天ぷらの衣のように自分の周りを包んでくれる。そして自分を目の前の現実から守ってくれるんです。」
これを聞いた時に、心底頷いたのを覚えている。僕は三〇半ばになった今でもまさにそんな状態だ。それゆえに、ある一つの職業や仕事に未だにまとまりきることができない。このように文章を書いたり、ある時は音楽を演ったり、ある時は芸術や福祉やまちづくりに関わる企画や講演を行ったり。周りから「何屋さんなんですか?」「結局何がしたいんですか?」と常に問われ続けてきた。それでも、自分が「なにモノ」でもなく、「なにモノ」にもなれず、だからこそ「なにモノ」かにならないといけないという周囲からの要請に抗い続け、フワフワとした希望と葛藤の狭間を生きてきたのだ。そして振り返ってみれば、その生を支え続けてくれたのが「夢そのものをずっと見続けている状態」であったことを、いま改めて感じている。
こう書くと、現実を直視していない甘い話と聞こえるかもしれない。しかし、様々な生きづらさを抱える子どもたちが増加している中、夢を語ることを「ソリューション」として子どもたちに押しつけ、すぐに現実に対する「答え」を求めてしまうのは、子どもたちをかえって生きづらさの深みにはめてしまうのではないだろうか。現実に合わせて夢を語ることから、現実の見方を変えていくために夢というバリアーを使い、前に進んでいく術を身につけること。このことが、未来の子どもたちにとって大事な上に、私たち大人たちにとっても肩の力を抜いて現実をより「楽しみなおす」ために必要なことだと思う。
----------
夢が天ぷらの衣のように自分を包んでくれる
子どもの頃、「将来の夢はなんですか?」と聞かれることがとても苦手だった。小学校の頃の作文集などを振り返ると、小学校一年生の時は、自分が一番仲が良かった友人といつまでも居たかったために「石井君と一緒に漫才師になりたい」と書かれていたし、小学校三年生の時は、父親の職業が眼鏡屋勤務だったのでただなんとなく「眼鏡屋になる」と書かれていたり。その問いに対して、その時の気分だけで適当に躱し続けてきた。正直、大人になった今でも、それはあまり変わらない。今思えば「なぜ、将来の夢を答えられないといけないのか?」あるいは「なぜ、そもそも夢なんて持たなければならないのか?」などと漠然と感じていたからだと思う。
もちろん夢を持つこと自体をあからさまに否定しようとは思っていない。問題は、大人たちが子どもたちに対して求めてくる夢がイコール「なりたい職業」という、暗黙の前提があることに違和感を感じてきたのだ。その前提を子どもたちもまた無意識に受け取り、周囲から浮いてしまわないように徐々に「スタンダードな夢の持ち方」を心がけてしまうようになるのかもしれない。例えば、作文で「野球選手になりたい」と書くことは夢とされても、「ずっと好きな野球を続けていきたい」と書くことは夢として認められにくいのだろうか。あるいは「宇宙飛行士になりたい」は夢で、「いつか宇宙船に乗ってそこで生活をしてみたい」だとどうだろう。思うに、夢というのはなりたい職業や仕事に関することに限られるものでは決してないはずだ。むしろ「こうなりたい」ではなく「こうありたい」と願うことも夢として受け入れられてもいいだろう。もちろん僕自身も含めて、子どもの頃にそこまで突っ込んだ疑問を言葉にできるわけではない。でも、世間から認められる「なにモノかにならねばならない」(別に有名になるといった意味ではなく、既存の職業とかに)という強迫観念を知らず知らずに刷り込まれ、「こういう状態=コトでありたい」と願う思考回路の芽が自然と摘まれてしまうという状況に対して、もっと目を向けてもいいのではなかろうか。
数年前、ある尊敬する編集者が、ラジオのトーク番組でこのようなことを語っていた。
「夢って現実の計画の話だけではなくって、“夢そのものをずっと見続けている状態でいられること”が、自分にとっての理想の夢ですね。」
「その状態でいられることによって、夢が天ぷらの衣のように自分の周りを包んでくれる。そして自分を目の前の現実から守ってくれるんです。」
これを聞いた時に、心底頷いたのを覚えている。僕は三〇半ばになった今でもまさにそんな状態だ。それゆえに、ある一つの職業や仕事に未だにまとまりきることができない。このように文章を書いたり、ある時は音楽を演ったり、ある時は芸術や福祉やまちづくりに関わる企画や講演を行ったり。周りから「何屋さんなんですか?」「結局何がしたいんですか?」と常に問われ続けてきた。それでも、自分が「なにモノ」でもなく、「なにモノ」にもなれず、だからこそ「なにモノ」かにならないといけないという周囲からの要請に抗い続け、フワフワとした希望と葛藤の狭間を生きてきたのだ。そして振り返ってみれば、その生を支え続けてくれたのが「夢そのものをずっと見続けている状態」であったことを、いま改めて感じている。
こう書くと、現実を直視していない甘い話と聞こえるかもしれない。しかし、様々な生きづらさを抱える子どもたちが増加している中、夢を語ることを「ソリューション」として子どもたちに押しつけ、すぐに現実に対する「答え」を求めてしまうのは、子どもたちをかえって生きづらさの深みにはめてしまうのではないだろうか。現実に合わせて夢を語ることから、現実の見方を変えていくために夢というバリアーを使い、前に進んでいく術を身につけること。このことが、未来の子どもたちにとって大事な上に、私たち大人たちにとっても肩の力を抜いて現実をより「楽しみなおす」ために必要なことだと思う。
by yamatogawarecord
| 2014-06-06 22:07