2012年 12月 08日
“住み開き”をされたことによる迷惑について。そしてその先の本質的な問い。 |
今日は、京都市が主催する平成24年度すまいスクールにおいて、『私にもできる「住み開き」 ~我が家から広がる新たなコミュニティ~』というテーマで講演をさせていただいた。
もちろん、アート系や、ソーシャルデザイン的な文脈でのトークともまったく客層が違うし、先週の三浦展さんたちと出演した、西宮まちづくり塾の世代がすごく幅広い場で100名超えるみたいな感じでもない。比較的50代以上の参加者がほとんどで、かつ少数制の講座。そして、ほとんどの方が「住み開き」の書籍も読んでらっしゃらない方だったので、この講座においてこの言葉・考え方自体を初めて知られるといった状況でした。なので、改めて、しっかりこの考え方・実践がどのような経緯と問題意識でもって僕の中から生まれて来たか、そしてそれが現在、社会の中でどのように広がって取り組まれているかを事例も含めながらお話させていただいた。前半70分くらいお話をして、休憩をはさみ後半は60分くらい皆さんの感想や質問にお答えした。
「年齢や性別などで、住み開きに対するしやすさ、しにくさはあるのか」
「京都ではどんな取り組みがあるのか」
「住み開きをしている事例をどのようにして見つけるのか」
「ニュータウンでもっとこういった取り組みが増えるといいと思う」
「世田谷のように公的な機関がパートナーになるパターンについて」
「“とにかく無理をせずに自分の好きなことから始める”ということに共感した」
「人と土地、どっちが中心に住み開きが広がっていくのか」
といった質問や感想、
また少し懐疑的な意見として
「マンションの管理規約との問題を考えた場合、そもそも住居スペースでこういった取り組みをすること自体いかがなものか」
「防犯や騒音の問題はどう考えたらいいのか」
それぞれに自分なりの考えを述べさせてもらう。
そして、ちょっとその場の臨場感的なニュアンスがあるので、ブログではうまく伝えにくいんだけど、とりわけマンションの管理規約的な質問をされた方に対しては、そこをどうクリアーするかは、むしろノウハウ的な話であって、それはそれで知恵の絞りようはあるけど、僕が伝えたいのは、そもそもの前提として「じゃあ、なぜ家は“家”として自明なイメージを持ってしまっているのか」ということを再考してみる、その観点が大事だと思っていると伝えた。「住み開き」の本質は、僕の中では「日常の中で当たり前のように考えられている、仕事/生活、公/私、日常/非日常、また様々な分野領域をわける、そう、これらの“/(ボーダー)”をどう考えるか」そのことを考えながら、“私”が“私”のままでいかに社会の何かに触れることができるか、その遠近感のブラされる感覚、みたいなことがいまの社会に大事なのではないかと。そういった感覚の実践場として家を使いなおすことができるのではないかということを、講演の最後に伝えさせてもらった。
そして、この講演の最後の最後、残り3分くらいの時に、色々な意味あいで考えさせられる問いをもらった。
ある高齢の女性の参加者から、「私の住んでいるマンションの上階で、まさに“住み開き”みたいなことをどうもしているらしく、騒音ですごく迷惑しているんだけどどうすればいいですか?」という発言。
そこから彼女は自分の不満を一気に吐き出すモードになっていったので、ひとまず「そのお話、どういった意図で上の方が家を開いているのか、そのあたりをあとで終わってからゆっくり聞かせてもらいませんか?一緒に考えましょうか」と話をし、ひとまず終わりの挨拶をして、場を終える。
その後、彼女とお話をする。以下、デリケートな問題にふれることは覚悟の上だが、とても大事なことなのでここに書きます。
「上階の人が、(学校の先生をしている、あるいはしていた家主さんらしく)子どもが好きなのか、10年以上も色んな子ども達がやってくる集いの家になっていて、いつも子どもたちが走り回る音がうるさい」
「管理人に相談を何度もしたり、直接家主にかけあったりしても“子どものことなので…”となかなか話が進まず、あげくの果てに、“お宅が引っ越しされたほうがいい”という結論になる」
「引っ越しするにも、歳をとっていて、身寄りもなく、賃貸保証人もいない」
「もうひとつ別の場所にも一軒家を持っているが、そっちはかなり古く痛んでいて、なおかつお隣さんが犬を沢山買っていては犬好きの人のコミュニティで“住み開き”状態になっていて、ここも騒音がかなわない」
「弁護士にも、支援センターにも相談したが、“そういった問題はよくあるし…”ということでまともにとりあってもらえない」
「同時に精神に障害をきたしており、いまは精神障害の支援も受けている。身体にも障害をもっている」
「こういったことを話せる友人も身内もおらず、今日はほとんどはじめてこの話をしてみた」
とった内容だった。
彼女は今日「住み開き」という講演会があることを、「こういった取り組みがあることで迷惑する人もいるから、そのことについて伝えたい」という思いでここに来たそうだ。
まず、ひとつ。
もし「住み開き」という考え方がこのようにいま起きている問題に一役を買ってしまっているのであれば、それは僕としてももちろん考えさせられるし、実際に「住み開きをするのであれば、しっかり近隣への配慮、コミュニケーションをおこなうこと。しっかり迷惑をかけないように対策すること」というメッセージは、まずこの場で伝えたい。それは本当に思う。
しかし同時に、この問題はもっと複雑で深い問題を孕んでいると思っている。
まず、“住み開き”という意識以前のご近所マナー問題であること。
そして、ファミリータイプマンションでの高齢独居ということ自体が彼女の立場をそのマンションコミュニティ内のおいてマイノリティにさせてしまっていること。
そして、彼女自身が精神や身体に障害を持っていることによりコミュニケーションにおいてやや課題を抱えており、同時にそのことで余計にまわりが偏見を持って彼女の話にとりあわなくなっているであろうこと。これは完全に広く社会的にマイノリティではないか。
そして、これはトラブル相談において当たり前のことだが、もちろん僕自身が彼女の一方的な考えや感覚しか受け取れていないこと。(どこまでが彼女の強い主観が入った意見で、どこまで事実なのかはこの対話では判断は不可能であること)
しかし、もうちょっと突っ込んで話すと、彼女自体、極端にコミュニケーションに問題があるわけではなく、ある程度、今回の講演の意図も理解をされていたり、病気である自分のことも多少客観的にみれている。こういうことから実は、彼女に対して支援を差し伸べること自体が非常にグレーで、まさにボーダーにあり、完全に福祉制度にはまらないようになっているし、彼女自身もそこにストレートにはまることは望んでいない様に思われた。自力でなんとか、いまの家で生きようとしている。これはひとつの“難民”だ。
僕は彼女に対してははっきりと「あなたに対して、はっきりした助けや答えを出すことは、僕には到底できません。」ということを伝えた上で、気が向いたら遊びに行ってほしい場所などの話をしつつも、やはり、こうやってとにかく他人であっても「話す」こと。そのことを空気で感じてもらいつつ、「ひとまず話せて少し楽になった」と言いながら、時間が来たので彼女は帰っていった。
直接的な問題の解決にもならないかもしれない。対話はすれ違いになるかもしれない。実際、きっとすれ違っていたと思う。僕がここで書いていることも僕の主観にすぎないし。
でも、お互いすれ違っていても話を聞いてくれる人がいて、そこでただ話す。それがまず大事だし、少なくとも僕にはそれしかできない。
もちろん法律とか制度とかで解決できる問題もあるし、僕も一応、法学部出身だし、福祉関係の人たちとよく仕事をしているのでそこは実感もある。
でも、そういった誤解を恐れずに言えば「外堀を埋める」作業だけでは解決できない、自己の有り様そのものを問う問題もある。
今年の1月に「住み開き」の本を出版し、もうすぐ一年が経つ12月。
いろいろモヤモヤをそのまま抱えながら、ひとまず明日からも頑張ろうか。
もちろん、アート系や、ソーシャルデザイン的な文脈でのトークともまったく客層が違うし、先週の三浦展さんたちと出演した、西宮まちづくり塾の世代がすごく幅広い場で100名超えるみたいな感じでもない。比較的50代以上の参加者がほとんどで、かつ少数制の講座。そして、ほとんどの方が「住み開き」の書籍も読んでらっしゃらない方だったので、この講座においてこの言葉・考え方自体を初めて知られるといった状況でした。なので、改めて、しっかりこの考え方・実践がどのような経緯と問題意識でもって僕の中から生まれて来たか、そしてそれが現在、社会の中でどのように広がって取り組まれているかを事例も含めながらお話させていただいた。前半70分くらいお話をして、休憩をはさみ後半は60分くらい皆さんの感想や質問にお答えした。
「年齢や性別などで、住み開きに対するしやすさ、しにくさはあるのか」
「京都ではどんな取り組みがあるのか」
「住み開きをしている事例をどのようにして見つけるのか」
「ニュータウンでもっとこういった取り組みが増えるといいと思う」
「世田谷のように公的な機関がパートナーになるパターンについて」
「“とにかく無理をせずに自分の好きなことから始める”ということに共感した」
「人と土地、どっちが中心に住み開きが広がっていくのか」
といった質問や感想、
また少し懐疑的な意見として
「マンションの管理規約との問題を考えた場合、そもそも住居スペースでこういった取り組みをすること自体いかがなものか」
「防犯や騒音の問題はどう考えたらいいのか」
それぞれに自分なりの考えを述べさせてもらう。
そして、ちょっとその場の臨場感的なニュアンスがあるので、ブログではうまく伝えにくいんだけど、とりわけマンションの管理規約的な質問をされた方に対しては、そこをどうクリアーするかは、むしろノウハウ的な話であって、それはそれで知恵の絞りようはあるけど、僕が伝えたいのは、そもそもの前提として「じゃあ、なぜ家は“家”として自明なイメージを持ってしまっているのか」ということを再考してみる、その観点が大事だと思っていると伝えた。「住み開き」の本質は、僕の中では「日常の中で当たり前のように考えられている、仕事/生活、公/私、日常/非日常、また様々な分野領域をわける、そう、これらの“/(ボーダー)”をどう考えるか」そのことを考えながら、“私”が“私”のままでいかに社会の何かに触れることができるか、その遠近感のブラされる感覚、みたいなことがいまの社会に大事なのではないかと。そういった感覚の実践場として家を使いなおすことができるのではないかということを、講演の最後に伝えさせてもらった。
そして、この講演の最後の最後、残り3分くらいの時に、色々な意味あいで考えさせられる問いをもらった。
ある高齢の女性の参加者から、「私の住んでいるマンションの上階で、まさに“住み開き”みたいなことをどうもしているらしく、騒音ですごく迷惑しているんだけどどうすればいいですか?」という発言。
そこから彼女は自分の不満を一気に吐き出すモードになっていったので、ひとまず「そのお話、どういった意図で上の方が家を開いているのか、そのあたりをあとで終わってからゆっくり聞かせてもらいませんか?一緒に考えましょうか」と話をし、ひとまず終わりの挨拶をして、場を終える。
その後、彼女とお話をする。以下、デリケートな問題にふれることは覚悟の上だが、とても大事なことなのでここに書きます。
「上階の人が、(学校の先生をしている、あるいはしていた家主さんらしく)子どもが好きなのか、10年以上も色んな子ども達がやってくる集いの家になっていて、いつも子どもたちが走り回る音がうるさい」
「管理人に相談を何度もしたり、直接家主にかけあったりしても“子どものことなので…”となかなか話が進まず、あげくの果てに、“お宅が引っ越しされたほうがいい”という結論になる」
「引っ越しするにも、歳をとっていて、身寄りもなく、賃貸保証人もいない」
「もうひとつ別の場所にも一軒家を持っているが、そっちはかなり古く痛んでいて、なおかつお隣さんが犬を沢山買っていては犬好きの人のコミュニティで“住み開き”状態になっていて、ここも騒音がかなわない」
「弁護士にも、支援センターにも相談したが、“そういった問題はよくあるし…”ということでまともにとりあってもらえない」
「同時に精神に障害をきたしており、いまは精神障害の支援も受けている。身体にも障害をもっている」
「こういったことを話せる友人も身内もおらず、今日はほとんどはじめてこの話をしてみた」
とった内容だった。
彼女は今日「住み開き」という講演会があることを、「こういった取り組みがあることで迷惑する人もいるから、そのことについて伝えたい」という思いでここに来たそうだ。
まず、ひとつ。
もし「住み開き」という考え方がこのようにいま起きている問題に一役を買ってしまっているのであれば、それは僕としてももちろん考えさせられるし、実際に「住み開きをするのであれば、しっかり近隣への配慮、コミュニケーションをおこなうこと。しっかり迷惑をかけないように対策すること」というメッセージは、まずこの場で伝えたい。それは本当に思う。
しかし同時に、この問題はもっと複雑で深い問題を孕んでいると思っている。
まず、“住み開き”という意識以前のご近所マナー問題であること。
そして、ファミリータイプマンションでの高齢独居ということ自体が彼女の立場をそのマンションコミュニティ内のおいてマイノリティにさせてしまっていること。
そして、彼女自身が精神や身体に障害を持っていることによりコミュニケーションにおいてやや課題を抱えており、同時にそのことで余計にまわりが偏見を持って彼女の話にとりあわなくなっているであろうこと。これは完全に広く社会的にマイノリティではないか。
そして、これはトラブル相談において当たり前のことだが、もちろん僕自身が彼女の一方的な考えや感覚しか受け取れていないこと。(どこまでが彼女の強い主観が入った意見で、どこまで事実なのかはこの対話では判断は不可能であること)
しかし、もうちょっと突っ込んで話すと、彼女自体、極端にコミュニケーションに問題があるわけではなく、ある程度、今回の講演の意図も理解をされていたり、病気である自分のことも多少客観的にみれている。こういうことから実は、彼女に対して支援を差し伸べること自体が非常にグレーで、まさにボーダーにあり、完全に福祉制度にはまらないようになっているし、彼女自身もそこにストレートにはまることは望んでいない様に思われた。自力でなんとか、いまの家で生きようとしている。これはひとつの“難民”だ。
僕は彼女に対してははっきりと「あなたに対して、はっきりした助けや答えを出すことは、僕には到底できません。」ということを伝えた上で、気が向いたら遊びに行ってほしい場所などの話をしつつも、やはり、こうやってとにかく他人であっても「話す」こと。そのことを空気で感じてもらいつつ、「ひとまず話せて少し楽になった」と言いながら、時間が来たので彼女は帰っていった。
直接的な問題の解決にもならないかもしれない。対話はすれ違いになるかもしれない。実際、きっとすれ違っていたと思う。僕がここで書いていることも僕の主観にすぎないし。
でも、お互いすれ違っていても話を聞いてくれる人がいて、そこでただ話す。それがまず大事だし、少なくとも僕にはそれしかできない。
もちろん法律とか制度とかで解決できる問題もあるし、僕も一応、法学部出身だし、福祉関係の人たちとよく仕事をしているのでそこは実感もある。
でも、そういった誤解を恐れずに言えば「外堀を埋める」作業だけでは解決できない、自己の有り様そのものを問う問題もある。
今年の1月に「住み開き」の本を出版し、もうすぐ一年が経つ12月。
いろいろモヤモヤをそのまま抱えながら、ひとまず明日からも頑張ろうか。
by yamatogawarecord
| 2012-12-08 23:30