2012年 09月 03日
アール・ブリュットを巡るレポートコラム全9本掲載(中編) |
昨年2011年6月〜今年2012年2月にかけて、以下の方々をゲストにお招きし、「アール・ブリュット」について様々な視点から語り合うトークをディレクションしました。
プレ 嘉田由紀子 さん(滋賀県知事)
視点1 斎藤 環 さん(精神科医)
視点2 田端 一恵 さん(滋賀県社会福祉事業団企画事業部 課長)
視点3 はた よしこ さん(ボーダレス・アートミュージアムNO-MAアートディレクター・絵本作家)
視点4 細馬 宏通 さん(動物行動学者・滋賀県立大学 教授)
視点5 中沢 新一 さん(人類学者・多摩美術大学芸術人類学研究所 所長)
視点6 田口 ランディ さん(作家)
視点7 高橋 伸行 さん(やさしい美術プロジェクト ディレクター・名古屋造形大学准教授 )
視点8 田中 恒子 さん(美術コレクター・大阪教育大学 名誉教授)
※聞き手は視点1を除き、すべて保坂健二朗さん(東京国立近代美術館主任研究院)
そして、その後、この取り組みをきっかっけに書籍の編集・執筆を進めています。(来春出版予定)まず、以下のトークレポートを絡めた拙文9本を掲載しますので、この活動に興味がある方、何かしらの参考にしてもらえれば幸いです。少々長いですが、以下、全文のうち、視点5〜視点6までを抜粋。
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視点5「日本の文脈 その変化の先で生まれるアンリーダブルな表現」
11/19のVol.5は明治大学 野生の科学研究所を立ち上げたばかりの人類学者 中沢新一さんが登壇。これまでのトークシリーズでは、作家が制作する施設現場や作品の展示にまつわる内容が主だったが、今回は人類史的な観点、あるいは3.11震災後における日本の時代文脈の流れを踏まえつつ、かなり大きな視点に立った、アール・ブリュットトークが展開された。
まず、中沢さんの提唱する「野生の科学」とは何か。「野生」というのは、あらゆる文明や文化や制度に飼いならされていない(「野生」という概念の参照元になっている人類学者 レヴィ・ストロースの言葉を借りれば「家畜化されていない」)原初的なものを指す。このような何の加工もされていない状態の心が、人間の営みの中で働いているということを仮定し、人間が行うさまざまな現象を理解し直したり、あるいは、それを創造の原理として捉え直そうと考える。クロマニョン人以降の現生人類を指すホモ・サピエンス・サピエンスの登場における悩組織の飛躍的な発達と言語の獲得を紐解きつつ、そういった膨大な時間の流れを経てなおも保存され続ける原初的、すなわちprimal(プライマル:英)でsauvage(ソバージュ:仏)な心のあり方を探りつつ、それが外側に表出される媒体としての「表現」(絵画や詩や音楽など)をつぶさに見つめていくこと。一方、レヴィ・ストロースがかつて研究対象としてきた未開社会の現代的代替イメージとして、「私たちのプライマルな心」を見つめる作業を通じて、合理的な思考法、経済的論理や効率性などに縛られない振る舞いを表現する共同体の事例(山口県熊毛郡上関町の祝島における原発建設反対運動)などにも言及。そういった「野生の科学」的思考を通じて、アール・ブリュットを掘り下げていく時間へと突入していった。
中沢さんは、ここ数年、三重県と東京都内にあるアトリエ・エレマン・プレザンとの交流を深めてきた。そこは、ダウン症の人のための絵画アトリエであり、中沢さんが所長を務める多摩美術大学 芸術人類学研究所と協同で、ダウン症の人々の絵を描く行為を通じて表現されたその思考に、未来への可能性を見いだす「ダウンズタウン計画」を進めてきた。以前から抱き続けて来たアール・ブリュットに対する関心とともに、ダウン症の彼ら彼女らが描く作品群を知ったときに、「人間のプライマルな心に踏み込んでいくための大きな道が開けた」と感じた中沢さん。その芸術表現に「アール・イマキュレ」(天使みたいな、無垢なアート)と名付け、本格的な研究に着手。聞き手の保坂健二朗さん(東京国立近代美術館)の「では、アール・ブリュットとアール・イマキュレの違いとは何か?」という問いに対し、中沢さんはアドルフ・ヴェルフやヘンリー・ダーガーの作品例を引きながら「アール・ブリュットの作品の特徴のひとつとして、目がいっぱい出てくる。この目は意識の向こう側からもれてくる光を通す穴をなのではないか。もう一つの特徴は、戦争の場面が非常に多いということ」と答えつつ、続けて「しかし、ダウン症の絵画を見た時にそうでもないと。 ここには、戦争がないんですね。色彩が戦争しないんです。完璧なぐらいの調和を保っていて、とても平和的。それは僕にとっては大変な驚きであり発見で、人間の心の探求をした結果、そのプライマルな心の中に、戦争がない世界が大きく広がっているのではないかと考えたのです」。
西洋を中心としたアール・ブリュット作家と言われる人たちの多くが、精神系の障害のある人たち、あるいは犯罪者やシャーマンなど、社会的にマージナルな立場の人たちも含まれて紹介されてきた中で、2010年に仏・パリ アルサンピエール美術館で開催された「アール・ブリュット ジャポネ」では、知的障害のある人たちが日本の注目作家としてたくさん取り上げられ、西洋の研究者に驚きを持って迎えられたという経緯がある。そしてその驚きのもとになっている芸術表現のあり方を紐解いてゆくと、前述した「平和」であることの構造上の特徴として「アンリーダブル(言語として読めない)」という解釈へと繋がる。保坂さん曰く「絵は言語のようにある程度論理的に構成され、共有化されているという点では確かに、アドルフ・ヴェルフリの作品などは“読みやすい”のかもしれません。基本的にシンメトリックな構造をとっていたり、たくさんの楽譜が描かれていたり、自分の王国の年代記のようなものをつくろうとしていたので、かなり“読める”タイプの作品」。続けて「それに対して、多くの知的障害者の人たちがつくる、あるいはダウン症の人たちがつくっているタイプの作品というのは、“読めない”というか。例えばエレマン・プレゼンの作家 岡田伸次さんの作品などは、その前に立ったときに、もうその“場”として、包まれるみたいな感覚…」。中沢さんはその意見に乗じて、「平和学」の確立に挑んできた過去の文学者、哲学者のそのアンリーダブルな表現実験における構造の共通点(例えば、ジェイムス・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』や、フィリプス・オレブスの『天国』など)を参照しながら、物語や言語が介在しない、「場」そのものとして作品のあり方の可能性についての議論をさらに深めていった。
このトークの後日、中沢さんは思想家の内田樹さんとの対談共著『日本の文脈』(角川書店)を上梓。3.11の震災、福島原発事故後に私たち日本人が進むべき方向を示した書籍だ。「今までは“戦闘少女”なんてアニメで見てればよかった。でもあれ、もう現実になっちゃったから。みんな戦闘服やら放射能防護スーツやらを着なきゃ本当にいけなくなっちゃったんですよ。そういった中で例えば映画の“ダイハード”を観ても全然面白くなくなってしまったり、温泉に使って“日本ってガラパゴスでいいよね”とか本当に言ってられなくなった。本質は変わらないけどそれを語る“文脈”がぼきっと折れるように変わったんです」と中沢さん。そうなってくるとこのトークに引き戻して考えた時に、おそらくアール・ブリュットを語る、あるいはそこから編み出される思考的枠組みを使う上での文脈もまた変わったのではないか。いま、滋賀県をはじめ、様々な地域や機関が、アール・ブリュットに取り組むことの意味を改めて考える必要があるだろう。そういったお題を抱えつつ、美術におけるマーケットのあり方、美術館や美術系大学という制度の機能性の問題などなど、二人の対談はさらに加速していく。保坂さん曰く「アール・ブリュットとの関わり方を考えていく時に、ひとつの答えとして“作家を支えるシステム”というものを今後の芸術活動において作っていくべきだと。アール・ブリュットという領域では、実は福祉の現場を通じて、そういうシステムに結果的になっているわけです。つまり、その通所施設という場所においてアトリエがあって、そこで既に制作が行われていることが、ある意味ゴッホをテオが支えていたというポーズと似ているといえば似ている。だから、そのシステムを、むしろ福祉施設から外の世界により拡大していくことが必要だろうと思います」中沢さんと会場からの質問者の応答プロセスで「アーティスト・ベーシック・インカム」の可能性という話題も出た。これまで往々にして経済的な価値観でのみ評価されがちだった芸術家を、うらやむ対象でも、疎外する対象でもなくて、ともかく支える対象であるというふうに変えていくべきだというのは二人にも共通した考え方のようだ。そのための起爆剤としてアール・ブリュットというものがどのように広がっていくのか。滋賀県における「美の滋賀」の実践への希望と課題も含めて、こういったトークの場を通じて、とにかく議論と批評を繰り広げていくことの必要性を確認し、まだまだ尽きそうにないトークは一旦終了時間を迎えたのだった。
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アール・ブリュットを巡るトークシリーズ Vol.5
「芸術人類学からみたアール・ブリュットの現在」
ゲスト:中沢新一(人類学者 / 明治大学野生の科学研究所 所長)
日時:2011年11月19日(土) 15時半〜17時半
会場:明治大学 野生の科学研究所
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視点6「私の内発性と拮抗する世界 その裂け目から生まれる表現」
11/26のVol.6では作家の田口ランディさんが登壇。舞台の縁に腰をかけて、参加者ひとりひとりに丁寧に語りかけるようなトークは、「人間の衝動とは、どこから湧いてくるのか」という大きな問いに対する考えから始まった。意識と言葉の関係、そこから生まれる意味、それによって合理的に構築された社会。そして意味性に先立って生まれうる内発的衝動を改めて見つめることにより、アール・ブリュットの作家たちの多くは一体どういう世界に生き、その内発的衝動をどのように表現へと結びつけてきたのか。彼女自身の経験を絡めて展開された。
「よく考えて合理的に動く方が矛盾なく正しいことができる、というのは社会の常識ですよね。行動の前に思考があり、思考があって行動するというパターン。でも私は、考えてから行動するということが私たちの人生にとってそれほど素敵なことなのだろうかってずっと考えてきました。つまり内発性よりも意味性が重視されすぎてるのではないかと」と田口さん。人類史における言葉と意識の発生起源を探ると、その二つはお互いの進化に深く関連しあっていると言われてきた。確かに僕らは言葉で思考し、言葉で意識し、この社会や価値観を作り上げてきたのだろう。そして田口さんは作家だ。言葉を最も扱うタイプの生業であり、もちろん言葉に多大なる恩恵を受けていることはご本人も重々承知している。その上で、氏曰く「アール・ブリュットの作家の中で、言葉に関する障害を持っている人は多いですね。つまり、言葉をうまく操れない。私のように当たり前に言葉を獲得し、言葉でコミュニケーションができるという前提で生きてきた者として、言葉を構築できないということが、どういう世界で生きることなのか、すごく関心があります」。言葉による思考の伝達だけがコミュニケーションの回路ではなく、そうではない別の回路を発見する手がかりとして、またその回路における内発性と意味性の割合について考えるきっかけをアール・ブリュットに求めること。それは、現在の多くの現代人が、無意識のうちに作り上げて来た意味性の勝利(その勝利は、民主主義によって多数が選び取った決断が、実は少数の涙によっても支えられているからこそ多数を優先せざるを得ないという、民主主義が本来内包してきた大切な苦渋を、徐々に忘れさせている)について、再度疑問を投げかけることへと繋がり、「私」の内発性を押しつぶそうとする目に見えぬプレッシャーを再認識することとなるだろう。そしてこの、「私」から生まれる内発性と社会が拮抗する時、そこに「表現」が生まれるということも改めて確認すべきだ。
「ここにものすごく重い心臓病の女の子がいます。海外に連れていって心臓移植を受けさせる必要があるけど、そのためには1億円が必要です。だから、みんなが募金をしてこの子を海外の病院に連れていき心臓移植を受けさせたい。“これはとってもいいことだから、田口さん!あなたは作家で、影響力があるからぜひ1億円集まるように宣伝してください!”みたいなことを頼まれることがよくあります。私はね、ものすごくいつも悩む。おっしゃることはすごくよくわかる。私だって娘がいる。娘が重病になったらきっとそう思うだろう。と、思う反面、悩んでしまう自分もいる。どこに悩むかというと、小説家の仕事は何かっていったら、“どんな人生にも意味がある”っていうことを伝えることなんだと。つまり、たとえ5歳で死んでしまってもその人生は、その人生としてすべての人生と同じように意味があるということを伝えるのが文学や芸術、つまり“表現”の役割だと思っているんです」。このことは、社会の常識ととても拮抗する。人はやはり死ぬよりも生きる方がいいという価値観で、生きるのであれば幸せで健康な方がいいし、病気はやはり不幸だという価値観が圧倒的多数である状況に対して、汎用性の高い意味性だけでなく、その人だけの意味や価値観や、内発的に社会に拮抗する衝動をどのように表現として昇華し、文学や芸術として抽象化し訴えていくか。田口さんは、アール・ブリュットに対して、その内発的な衝動から生まれた表現において発生する矛盾や重層性に惹かれると話す。「人間というのはいくつもの面を併せ持っている矛盾した存在なわけで、でもこの矛盾を言葉でもって合理的に整理して生きているんです。でもアール・ブリュットの表現においてはその矛盾を自己言及してもいいんだということが現れている。蝶にも見えるし、お母さんにも見えるし、山にも見える。とても重層的で多様な表現。この矛盾から生まれる重層性や多様性というものが、実は人間がコミュニケーションしたり、社会を形成していく上でものすごく大事なことなんです。そこには2つの対立した意見もまったく別の第三の意見としてまとめていけるような、そういう不思議な力が生まれているんですよ。」
後半は、聞き手の保坂健二朗さん(東京国立近代美術館主任研究員)も交えて、参加者との対話。すべてはここでは紹介しきれないが、とりわけ共通した質問にアール・ブリュットという価値観を広げることについての動機や躊躇い、希望や不安、あるいは未知について。田口さんと保坂さんの両者に響き合う考えとして、日本のアール・ブリュットが「福祉という分野だからこそ発見された芸術」というプロセスが語られる。「私たちの社会に存在する“人間皆平等”とか“自由”だという言葉がいかに建前であり、現実的には合理的な問題の処理が多数決による解決で進み、それによって少数の意見は否定され、そして合理的に行動できない人たちは排除されるということが確実に社会の中で起こっているということを、福祉というジャンルで活動してきた人たちは、一番、実感してきたんだと思います。だから、この何とも息苦しい世の中をどこかで変えたい、そうじゃない価値観を提示したいって心から願った先に、芸術というものが福祉の中から生まれてきて、発見されて、いま社会に送り出されようとしているんだと」と田口さん。保坂さんは「例えばアール・ブリュットの作品が売れるとわかった場合に、周りが作らせるとします。売れるんだからと、もっとつくればいいじゃないかと。そうすると、内発的な衝動というものが最も大事だったはずのアール・ブリュットにおいて、やっぱり作品の質が落ちていく場合がある。だから少なくともアール・ブリュットにおいては、内発性というものを保持できるような環境を周囲がしっかり守ってあげる必要がある。その周囲が何かしてあげなければいけないというのがアール・ブリュットと、ほかのいわゆるプロフェッショナルなアートとの大きな違いだと思います。実際には、とりわけ日本の場合には福祉という“人を支えるプロフェッショナル”の方々が実際それをやっているということが非常に重要なんじゃないでしょうか」
また最後に、施設のアトリエで作家たちに寄り添う支援員をしている方から「作品を紹介する上での、その人の(障害の有無や種類などの)背景をどれだけ伝えるべきか」という質問があがる。保坂さんは「美術館で働いてきた立場としてずっと“作品だけに向き合う”というスタンスでいたが、ここ数年で考え方が変わってきました。皆さんによく聞かれるんですよ。“この作品を作っている人ってどんな人なんですか?”と。この質問はこれまで通常のアート作品ではあまりあがらなかった。だから作品が出発点だけど、その先に作家の人生へと繋がっていくということは良いことだと思ってます」 田口さんは「作家自身やその制作プロセスがあまりにも個性的なので、そこと作品とを自分の中で引き離すことはできなくなってますね。すべてがひとつのインスタレーションのように見えちゃうんです」
本レポートのタイトルには「私の内発性と拮抗する世界 その裂け目から生まれる表現」とつけた。改めて、内発的衝動が表現へと向かう瞬間に立ち会うことは、もうひとつの世界の具現化に立ち会うことでもあり、そのことが自分と世界との距離感が生み出す「客観性」や「意味性」を生じさせない、自己と世界がほぼ同一の座標にスキマなく存在する状態を生み出す。つまりアール・ブリュットにおいては、作り手はその内部においては確実に世界を変革しているのであり、そのことを目のあたりにするということは、本トークVol.1の斎藤環さんから語られた「批評せず、関係する」ことによる「“私というプログラム”が書き換えられるリスクを受け入れる覚悟」を持ってなすべきことであり、その覚悟を引き受けた一人一人の変革の先に、田口さんが熱く口にした「アール・ブリュットの可能性っていうのは、日本の社会を変えていく可能性であり、民主主義の本質を問う可能性なんです」という大きな変革が待っているのかもしれない。
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アール・ブリュットを巡るトークシリーズ Vol.6
「アール・ブリュットとの出会い そしてその可能性について」
ゲスト:田口ランディ(作家)
日時:2011年11月26日(土) 14時半〜16時半
会場:近江兄弟社学園 教育会館
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プレ 嘉田由紀子 さん(滋賀県知事)
視点1 斎藤 環 さん(精神科医)
視点2 田端 一恵 さん(滋賀県社会福祉事業団企画事業部 課長)
視点3 はた よしこ さん(ボーダレス・アートミュージアムNO-MAアートディレクター・絵本作家)
視点4 細馬 宏通 さん(動物行動学者・滋賀県立大学 教授)
視点5 中沢 新一 さん(人類学者・多摩美術大学芸術人類学研究所 所長)
視点6 田口 ランディ さん(作家)
視点7 高橋 伸行 さん(やさしい美術プロジェクト ディレクター・名古屋造形大学准教授 )
視点8 田中 恒子 さん(美術コレクター・大阪教育大学 名誉教授)
※聞き手は視点1を除き、すべて保坂健二朗さん(東京国立近代美術館主任研究院)
そして、その後、この取り組みをきっかっけに書籍の編集・執筆を進めています。(来春出版予定)まず、以下のトークレポートを絡めた拙文9本を掲載しますので、この活動に興味がある方、何かしらの参考にしてもらえれば幸いです。少々長いですが、以下、全文のうち、視点5〜視点6までを抜粋。
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視点5「日本の文脈 その変化の先で生まれるアンリーダブルな表現」
11/19のVol.5は明治大学 野生の科学研究所を立ち上げたばかりの人類学者 中沢新一さんが登壇。これまでのトークシリーズでは、作家が制作する施設現場や作品の展示にまつわる内容が主だったが、今回は人類史的な観点、あるいは3.11震災後における日本の時代文脈の流れを踏まえつつ、かなり大きな視点に立った、アール・ブリュットトークが展開された。
まず、中沢さんの提唱する「野生の科学」とは何か。「野生」というのは、あらゆる文明や文化や制度に飼いならされていない(「野生」という概念の参照元になっている人類学者 レヴィ・ストロースの言葉を借りれば「家畜化されていない」)原初的なものを指す。このような何の加工もされていない状態の心が、人間の営みの中で働いているということを仮定し、人間が行うさまざまな現象を理解し直したり、あるいは、それを創造の原理として捉え直そうと考える。クロマニョン人以降の現生人類を指すホモ・サピエンス・サピエンスの登場における悩組織の飛躍的な発達と言語の獲得を紐解きつつ、そういった膨大な時間の流れを経てなおも保存され続ける原初的、すなわちprimal(プライマル:英)でsauvage(ソバージュ:仏)な心のあり方を探りつつ、それが外側に表出される媒体としての「表現」(絵画や詩や音楽など)をつぶさに見つめていくこと。一方、レヴィ・ストロースがかつて研究対象としてきた未開社会の現代的代替イメージとして、「私たちのプライマルな心」を見つめる作業を通じて、合理的な思考法、経済的論理や効率性などに縛られない振る舞いを表現する共同体の事例(山口県熊毛郡上関町の祝島における原発建設反対運動)などにも言及。そういった「野生の科学」的思考を通じて、アール・ブリュットを掘り下げていく時間へと突入していった。
中沢さんは、ここ数年、三重県と東京都内にあるアトリエ・エレマン・プレザンとの交流を深めてきた。そこは、ダウン症の人のための絵画アトリエであり、中沢さんが所長を務める多摩美術大学 芸術人類学研究所と協同で、ダウン症の人々の絵を描く行為を通じて表現されたその思考に、未来への可能性を見いだす「ダウンズタウン計画」を進めてきた。以前から抱き続けて来たアール・ブリュットに対する関心とともに、ダウン症の彼ら彼女らが描く作品群を知ったときに、「人間のプライマルな心に踏み込んでいくための大きな道が開けた」と感じた中沢さん。その芸術表現に「アール・イマキュレ」(天使みたいな、無垢なアート)と名付け、本格的な研究に着手。聞き手の保坂健二朗さん(東京国立近代美術館)の「では、アール・ブリュットとアール・イマキュレの違いとは何か?」という問いに対し、中沢さんはアドルフ・ヴェルフやヘンリー・ダーガーの作品例を引きながら「アール・ブリュットの作品の特徴のひとつとして、目がいっぱい出てくる。この目は意識の向こう側からもれてくる光を通す穴をなのではないか。もう一つの特徴は、戦争の場面が非常に多いということ」と答えつつ、続けて「しかし、ダウン症の絵画を見た時にそうでもないと。 ここには、戦争がないんですね。色彩が戦争しないんです。完璧なぐらいの調和を保っていて、とても平和的。それは僕にとっては大変な驚きであり発見で、人間の心の探求をした結果、そのプライマルな心の中に、戦争がない世界が大きく広がっているのではないかと考えたのです」。
西洋を中心としたアール・ブリュット作家と言われる人たちの多くが、精神系の障害のある人たち、あるいは犯罪者やシャーマンなど、社会的にマージナルな立場の人たちも含まれて紹介されてきた中で、2010年に仏・パリ アルサンピエール美術館で開催された「アール・ブリュット ジャポネ」では、知的障害のある人たちが日本の注目作家としてたくさん取り上げられ、西洋の研究者に驚きを持って迎えられたという経緯がある。そしてその驚きのもとになっている芸術表現のあり方を紐解いてゆくと、前述した「平和」であることの構造上の特徴として「アンリーダブル(言語として読めない)」という解釈へと繋がる。保坂さん曰く「絵は言語のようにある程度論理的に構成され、共有化されているという点では確かに、アドルフ・ヴェルフリの作品などは“読みやすい”のかもしれません。基本的にシンメトリックな構造をとっていたり、たくさんの楽譜が描かれていたり、自分の王国の年代記のようなものをつくろうとしていたので、かなり“読める”タイプの作品」。続けて「それに対して、多くの知的障害者の人たちがつくる、あるいはダウン症の人たちがつくっているタイプの作品というのは、“読めない”というか。例えばエレマン・プレゼンの作家 岡田伸次さんの作品などは、その前に立ったときに、もうその“場”として、包まれるみたいな感覚…」。中沢さんはその意見に乗じて、「平和学」の確立に挑んできた過去の文学者、哲学者のそのアンリーダブルな表現実験における構造の共通点(例えば、ジェイムス・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』や、フィリプス・オレブスの『天国』など)を参照しながら、物語や言語が介在しない、「場」そのものとして作品のあり方の可能性についての議論をさらに深めていった。
このトークの後日、中沢さんは思想家の内田樹さんとの対談共著『日本の文脈』(角川書店)を上梓。3.11の震災、福島原発事故後に私たち日本人が進むべき方向を示した書籍だ。「今までは“戦闘少女”なんてアニメで見てればよかった。でもあれ、もう現実になっちゃったから。みんな戦闘服やら放射能防護スーツやらを着なきゃ本当にいけなくなっちゃったんですよ。そういった中で例えば映画の“ダイハード”を観ても全然面白くなくなってしまったり、温泉に使って“日本ってガラパゴスでいいよね”とか本当に言ってられなくなった。本質は変わらないけどそれを語る“文脈”がぼきっと折れるように変わったんです」と中沢さん。そうなってくるとこのトークに引き戻して考えた時に、おそらくアール・ブリュットを語る、あるいはそこから編み出される思考的枠組みを使う上での文脈もまた変わったのではないか。いま、滋賀県をはじめ、様々な地域や機関が、アール・ブリュットに取り組むことの意味を改めて考える必要があるだろう。そういったお題を抱えつつ、美術におけるマーケットのあり方、美術館や美術系大学という制度の機能性の問題などなど、二人の対談はさらに加速していく。保坂さん曰く「アール・ブリュットとの関わり方を考えていく時に、ひとつの答えとして“作家を支えるシステム”というものを今後の芸術活動において作っていくべきだと。アール・ブリュットという領域では、実は福祉の現場を通じて、そういうシステムに結果的になっているわけです。つまり、その通所施設という場所においてアトリエがあって、そこで既に制作が行われていることが、ある意味ゴッホをテオが支えていたというポーズと似ているといえば似ている。だから、そのシステムを、むしろ福祉施設から外の世界により拡大していくことが必要だろうと思います」中沢さんと会場からの質問者の応答プロセスで「アーティスト・ベーシック・インカム」の可能性という話題も出た。これまで往々にして経済的な価値観でのみ評価されがちだった芸術家を、うらやむ対象でも、疎外する対象でもなくて、ともかく支える対象であるというふうに変えていくべきだというのは二人にも共通した考え方のようだ。そのための起爆剤としてアール・ブリュットというものがどのように広がっていくのか。滋賀県における「美の滋賀」の実践への希望と課題も含めて、こういったトークの場を通じて、とにかく議論と批評を繰り広げていくことの必要性を確認し、まだまだ尽きそうにないトークは一旦終了時間を迎えたのだった。
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アール・ブリュットを巡るトークシリーズ Vol.5
「芸術人類学からみたアール・ブリュットの現在」
ゲスト:中沢新一(人類学者 / 明治大学野生の科学研究所 所長)
日時:2011年11月19日(土) 15時半〜17時半
会場:明治大学 野生の科学研究所
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視点6「私の内発性と拮抗する世界 その裂け目から生まれる表現」
11/26のVol.6では作家の田口ランディさんが登壇。舞台の縁に腰をかけて、参加者ひとりひとりに丁寧に語りかけるようなトークは、「人間の衝動とは、どこから湧いてくるのか」という大きな問いに対する考えから始まった。意識と言葉の関係、そこから生まれる意味、それによって合理的に構築された社会。そして意味性に先立って生まれうる内発的衝動を改めて見つめることにより、アール・ブリュットの作家たちの多くは一体どういう世界に生き、その内発的衝動をどのように表現へと結びつけてきたのか。彼女自身の経験を絡めて展開された。
「よく考えて合理的に動く方が矛盾なく正しいことができる、というのは社会の常識ですよね。行動の前に思考があり、思考があって行動するというパターン。でも私は、考えてから行動するということが私たちの人生にとってそれほど素敵なことなのだろうかってずっと考えてきました。つまり内発性よりも意味性が重視されすぎてるのではないかと」と田口さん。人類史における言葉と意識の発生起源を探ると、その二つはお互いの進化に深く関連しあっていると言われてきた。確かに僕らは言葉で思考し、言葉で意識し、この社会や価値観を作り上げてきたのだろう。そして田口さんは作家だ。言葉を最も扱うタイプの生業であり、もちろん言葉に多大なる恩恵を受けていることはご本人も重々承知している。その上で、氏曰く「アール・ブリュットの作家の中で、言葉に関する障害を持っている人は多いですね。つまり、言葉をうまく操れない。私のように当たり前に言葉を獲得し、言葉でコミュニケーションができるという前提で生きてきた者として、言葉を構築できないということが、どういう世界で生きることなのか、すごく関心があります」。言葉による思考の伝達だけがコミュニケーションの回路ではなく、そうではない別の回路を発見する手がかりとして、またその回路における内発性と意味性の割合について考えるきっかけをアール・ブリュットに求めること。それは、現在の多くの現代人が、無意識のうちに作り上げて来た意味性の勝利(その勝利は、民主主義によって多数が選び取った決断が、実は少数の涙によっても支えられているからこそ多数を優先せざるを得ないという、民主主義が本来内包してきた大切な苦渋を、徐々に忘れさせている)について、再度疑問を投げかけることへと繋がり、「私」の内発性を押しつぶそうとする目に見えぬプレッシャーを再認識することとなるだろう。そしてこの、「私」から生まれる内発性と社会が拮抗する時、そこに「表現」が生まれるということも改めて確認すべきだ。
「ここにものすごく重い心臓病の女の子がいます。海外に連れていって心臓移植を受けさせる必要があるけど、そのためには1億円が必要です。だから、みんなが募金をしてこの子を海外の病院に連れていき心臓移植を受けさせたい。“これはとってもいいことだから、田口さん!あなたは作家で、影響力があるからぜひ1億円集まるように宣伝してください!”みたいなことを頼まれることがよくあります。私はね、ものすごくいつも悩む。おっしゃることはすごくよくわかる。私だって娘がいる。娘が重病になったらきっとそう思うだろう。と、思う反面、悩んでしまう自分もいる。どこに悩むかというと、小説家の仕事は何かっていったら、“どんな人生にも意味がある”っていうことを伝えることなんだと。つまり、たとえ5歳で死んでしまってもその人生は、その人生としてすべての人生と同じように意味があるということを伝えるのが文学や芸術、つまり“表現”の役割だと思っているんです」。このことは、社会の常識ととても拮抗する。人はやはり死ぬよりも生きる方がいいという価値観で、生きるのであれば幸せで健康な方がいいし、病気はやはり不幸だという価値観が圧倒的多数である状況に対して、汎用性の高い意味性だけでなく、その人だけの意味や価値観や、内発的に社会に拮抗する衝動をどのように表現として昇華し、文学や芸術として抽象化し訴えていくか。田口さんは、アール・ブリュットに対して、その内発的な衝動から生まれた表現において発生する矛盾や重層性に惹かれると話す。「人間というのはいくつもの面を併せ持っている矛盾した存在なわけで、でもこの矛盾を言葉でもって合理的に整理して生きているんです。でもアール・ブリュットの表現においてはその矛盾を自己言及してもいいんだということが現れている。蝶にも見えるし、お母さんにも見えるし、山にも見える。とても重層的で多様な表現。この矛盾から生まれる重層性や多様性というものが、実は人間がコミュニケーションしたり、社会を形成していく上でものすごく大事なことなんです。そこには2つの対立した意見もまったく別の第三の意見としてまとめていけるような、そういう不思議な力が生まれているんですよ。」
後半は、聞き手の保坂健二朗さん(東京国立近代美術館主任研究員)も交えて、参加者との対話。すべてはここでは紹介しきれないが、とりわけ共通した質問にアール・ブリュットという価値観を広げることについての動機や躊躇い、希望や不安、あるいは未知について。田口さんと保坂さんの両者に響き合う考えとして、日本のアール・ブリュットが「福祉という分野だからこそ発見された芸術」というプロセスが語られる。「私たちの社会に存在する“人間皆平等”とか“自由”だという言葉がいかに建前であり、現実的には合理的な問題の処理が多数決による解決で進み、それによって少数の意見は否定され、そして合理的に行動できない人たちは排除されるということが確実に社会の中で起こっているということを、福祉というジャンルで活動してきた人たちは、一番、実感してきたんだと思います。だから、この何とも息苦しい世の中をどこかで変えたい、そうじゃない価値観を提示したいって心から願った先に、芸術というものが福祉の中から生まれてきて、発見されて、いま社会に送り出されようとしているんだと」と田口さん。保坂さんは「例えばアール・ブリュットの作品が売れるとわかった場合に、周りが作らせるとします。売れるんだからと、もっとつくればいいじゃないかと。そうすると、内発的な衝動というものが最も大事だったはずのアール・ブリュットにおいて、やっぱり作品の質が落ちていく場合がある。だから少なくともアール・ブリュットにおいては、内発性というものを保持できるような環境を周囲がしっかり守ってあげる必要がある。その周囲が何かしてあげなければいけないというのがアール・ブリュットと、ほかのいわゆるプロフェッショナルなアートとの大きな違いだと思います。実際には、とりわけ日本の場合には福祉という“人を支えるプロフェッショナル”の方々が実際それをやっているということが非常に重要なんじゃないでしょうか」
また最後に、施設のアトリエで作家たちに寄り添う支援員をしている方から「作品を紹介する上での、その人の(障害の有無や種類などの)背景をどれだけ伝えるべきか」という質問があがる。保坂さんは「美術館で働いてきた立場としてずっと“作品だけに向き合う”というスタンスでいたが、ここ数年で考え方が変わってきました。皆さんによく聞かれるんですよ。“この作品を作っている人ってどんな人なんですか?”と。この質問はこれまで通常のアート作品ではあまりあがらなかった。だから作品が出発点だけど、その先に作家の人生へと繋がっていくということは良いことだと思ってます」 田口さんは「作家自身やその制作プロセスがあまりにも個性的なので、そこと作品とを自分の中で引き離すことはできなくなってますね。すべてがひとつのインスタレーションのように見えちゃうんです」
本レポートのタイトルには「私の内発性と拮抗する世界 その裂け目から生まれる表現」とつけた。改めて、内発的衝動が表現へと向かう瞬間に立ち会うことは、もうひとつの世界の具現化に立ち会うことでもあり、そのことが自分と世界との距離感が生み出す「客観性」や「意味性」を生じさせない、自己と世界がほぼ同一の座標にスキマなく存在する状態を生み出す。つまりアール・ブリュットにおいては、作り手はその内部においては確実に世界を変革しているのであり、そのことを目のあたりにするということは、本トークVol.1の斎藤環さんから語られた「批評せず、関係する」ことによる「“私というプログラム”が書き換えられるリスクを受け入れる覚悟」を持ってなすべきことであり、その覚悟を引き受けた一人一人の変革の先に、田口さんが熱く口にした「アール・ブリュットの可能性っていうのは、日本の社会を変えていく可能性であり、民主主義の本質を問う可能性なんです」という大きな変革が待っているのかもしれない。
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アール・ブリュットを巡るトークシリーズ Vol.6
「アール・ブリュットとの出会い そしてその可能性について」
ゲスト:田口ランディ(作家)
日時:2011年11月26日(土) 14時半〜16時半
会場:近江兄弟社学園 教育会館
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by yamatogawarecord
| 2012-09-03 12:15