2015年 01月 22日
拝啓 peck you!!こと飯田修司くんへ 彼との営みの記録 |
10年来の親友であるシンガーソングライターのpeck you!!こと飯田修司くんの訃報を聞きました。先日18日のことです。死因や状況もまったくわからないけど、ある知人を通じて「葬式も済ませたらしい」という連絡だけを受けました。
端的に言うと、彼は同世代(同い年)で僕にとって実に具体的な「アイドル」でした。
2000年、僕が「越後屋」というバンドに加入して最初に大阪で行なったライブは難波ベアーズで、彼との対バンだった。孤高な出で立ちと、周囲を寄せ付けないようなやや尖った印象でリハ―サルをしていて、その真っすぐな歌声と耳から離れない美しくも癖のあるメロディ、エフェクターで変幻自在に音を操る様子にすっかり魅了され、確かDICEから出ていたコンピレーションアルバムを買って帰ったのが、彼との最初の邂逅でした。
当時、僕はドラマーとして越後屋に参加しつつ、どうしても歌を歌いたくて、まったく弾けないギターを少しずつ手に取り始めたころで、飯田くんに対しての気持ちは、「自分がやりたいことをこんなに高い完成度で実現している」という強い憧れと嫉妬が綯い交ぜになったものでした。だから「ドラマーとして」会うのではなく、できれば「歌を歌う者」としていつか対等に出会い直したい。そんな、いま思えば浅はかかもしれない自意識と照らし合わせながら、彼を陰から見ていたのでした。
僕が「大和川レコード」という名義でソロを立ち上げたのは、様々な影響があるにせよ、紛れもなく、飯田くんの存在は大きな動機でした。
2001年夏にリリースされた飯田くんのアルバム『森の舞台』(カフェオレーベル)は傑作でした。今でもずっと聴き続けている名盤です。僕は、このアルバムの中に収録されている「ザムライ」という曲が存在しなければ、自分が最初に作った曲である「カルデラ」という曲は確実に生むことはなかった。そして、やはり同時に突きつけられた。僕は彼の様にはなれないということを。エフェクトなどを使いつつも、純粋に歌とギターで勝負をしている飯田くんと違って、僕は、自分の才能を補うために、コンセプトメイクの方向に向かっていき、やがてサウンドスケイプや会話やリハーサルの風景などをサンプリングしながら歌を構成する「日常再編集」というテーマで、なんとか自分のソロの立ち位置を打ち出していこうと思いました。それが良かったのか悪かったのかは別として、こうやって自分の道を進んでいくうえで、明確にひとつの指標になっていたアーティスト、それが僕にとってpeck you!!こと飯田修司くんだったのです。
確かなことは 浮ついた空
あまりに太陽が 登りすぎたから
あなたの言葉 傷つけたことや
遊び半分でありすぎてしまったこと
ザムライがそれを許す
明日になれば すぐに忘れな
あまりに夜が 長過ぎるだから
明け方の空 色の塗り替えだ
あなたのことを 思い出してしまったことや
私のことは嫌いになった? 嫌いになったんだ
確かなことは 浮ついた空
あまりに太陽が 進んで見えた
街並よ夜を包む
(『ザムライ』)
2004年以降は、お互いソロ同士として舞台で共演するようになり、友人になりました。
彼が僕のパフォーマンスを面白がってくれたのは本当に嬉しかったし、僕も「君に憧れていた」とは直接伝えるのはやはりプライドもあるし、でもせめて、彼と何かをしたいと思って、当時勤めていたココルームというスペースで、彼を何度かブッキングさせてもらいました。彼は、その才能の反面(というかそれゆえに)、性格的には少しややこしいところがあり、ブッキングの条件や、舞台の環境など、何度か僕と口論になったこともあり、正直、「なかなか付き合うのが難しいヤツなんだな」と思ったこともよく覚えています。とにかく遠慮がない。空気も読まない。あまりにも自分に正直な人。でも、それを差っ引いてでも、彼には卓越した才能と憎めないキャラクターがあるし、彼の歌は端的に「もっと売れていいい」と強く思っていました。
交流を続けるに連れて、彼は自分が置かれている状況、金を稼ぐ為にやっている様々なアルバイト(確か警備員や新幹線の掃除の仕事など)の辛さや、実家での居心地の悪さなど様々な苦悩を、僕に語ってくれるようになりました。どうやったら自分の表現と仕事を結びつけられるかという、表現者なら誰しもが考えること、そして僕もその問いに強い当事者性を持っていたために、まったく人ごとではなく、安月給ながらもなんとかスペ―スを運営しながら音楽をやり生計を立てていた僕としても、彼と様々な議論をしたかったのでした。
2007年くらい。しばらく会わない時期が続きどうしているのだろうかと思っていたら、彼は名義を「PECK」から「peck you!!」に変えて、活動を再開していました。
2008年の春、飯田くんはとても精力的で、南森町の雲州堂で自ら企画した歌ものイベント『淀川花火大会のようなアンコール』(素敵なタイトルだ)に僕を呼んでくれました。それに応答するかのように、僕もその夏、当時運営していたネットラジオの一環で彼に「番組作品」を作ってもらい、アップルストア心斎橋で行なう公開収録ライブに出演してもらいました。4本の素晴らしい「番組作品」はこのブログを読む皆さんにもぜひとも聴いてほしい。特に4本目、最終回は本当に素晴らしい。(最下部URL添付)
2009年は、堺のパンゲアで行なった僕とパートナーの結婚パーティーのトリで、歌を歌ってもらいました。パーティーを企画をしてくれた友人たちと打ち合わせする中、僕が一番最初にお願いしたのが「飯田くんに歌ってもらいたい」ということでした。彼に歌で祝福してもらうこと無しに、この結婚はありえないと思っていたから。彼の二枚目のアルバム『虹の絶望』に収録されているその名もずばり「けっこん」という曲があります。それは本当に切なく、素晴らしい曲です。
あなたと 共に生きてゆこうか もう少し
明後日の 朝からは 約束守ろうかな
私たちは 浮世離れしてゆく もう少し
立体的な 気持ちでさ 愛を交わそうかな
(『けっこん』)
2010年頃、彼から「関東に行きたい。で先立つものがない」という相談を受けました。そこで、僕はアーティストが関東で活動する基盤をつくるサポートをしている、知人が運営する横浜寿町のゲストハウスを紹介し、彼はしばらくそこに住みながら、活動を続けていたようです。
2011年秋に、ヨコハマトリエンナーレを観に行っていた際に、桜木町でばったり彼と再会したときは、あまりの偶然に二人で本当に喜びあったのを今でもはっきり覚えています。
その後、彼は知人よれば関東にて精神的に不安定になり活動を休止せざるを得なかったようでした。ある時から彼を検索してもまったく情報が出て来ず、気にはなっていました。そして2014年に大阪に戻り、少しずつ周知のサポートを受けて回復をし、新しい曲も書き始めていたとのことでした。まさか、2011年秋の横浜での偶然の再会が、彼との最後の日になるとはまったく思っていませんでした。
訃報を聞いたときふと思ったことがあります。
「なんて自然なんだ」と。
誤解を恐れずに言えば、彼は「いかにも死んでしまいそう」な人だった。
あんなにいい曲を書いて
あんなに不器用で
あんなに才能に満ちあふれていて
あんなに孤独で
あんなに徹底して自分に正直だった
そんな彼が、まだ事情がはっきりわからないにしよ、それが本人の意思であれでそうでないにせよ「死」に向かった。そのことが、あまり自然だったのです。だから涙も出なかった。驚きはしたけど、すぐに「そうか」と心のどこかで思ってしまったのでした。そして、あのとき、関東に行くことに協力したことが良かったのかどうかがわからず、この数日、そのことについてはとても悩んでいます。でもどうすることもできない。
僕が関係した、彼の作品や、彼の写真を少しでも皆さんにここで共有したいと思います。飯田くんは、僕の中では、月並みな言い方だけど、全然死んでない。生き続けている。いま聴いている。これからも聴く。飯田くん、これからもよろしく。本当に。
会っては直接言えなかったけど、君は僕の「アイドル」なんです。いつまでも。
すいこまれんな
風はつよいな
明日の空
光あおげや
あきらめるな
孤独はゆらゆら
たまらず僕は
夜におぼれた
(『波』)
http://www.webarc.jp/2008/05/09015147.php(peck you!!の音声作品が含まれたネットラジオ1)
http://www.webarc.jp/2008/05/16074908.php(peck you!!の音声作品が含まれたネットラジオ2)
http://www.webarc.jp/2008/05/23163034.php(peck you!!の音声作品が含まれたネットラジオ3)
http://www.webarc.jp/2008/05/30162712.php(peck you!!の音声作品が含まれたネットラジオ4)
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by yamatogawarecord
| 2015-01-22 13:35