2008年 03月 14日
『遭難フリーター』を見た。 |
一昨日、大阪は天満橋のドーンセンターにて、今、社会的に旬なテーマを扱ったドキュメンタリー映画『遭難フリーター』を観た。この企画は、トークとセットになっていて「時代に消費されずに生きる」という題目がついているイベント。コーディネーターが、一時期仕事仲間であった、元應典院スタッフの大塚郁子さん。そしてゲストにヘックスという友達のアクティビストも出ていたので、とりあえず行ってみることに。
映画。ひとまず下に予告編を貼ろう。
ええっと。まず、単純ではない映画で、面白かった。
正直、「この格差社会なんとかしようや!俺ら、全然仕事ないし、給料安いし!デモや!デモ!」ってな乗りだけの映画やったら、どうしようと思って、観てみたのだけれど、話はそう単純な若者のネオリベ批判ではない。
一見、最初はそう思わせるが、話が進行していくと一筋縄ではいかない色んな視点が織り交ざってくる。そして映像も上手い。
仙台の出身の岩淵さんという20代前半の主人公が東京にあこがれて、でも東京でいきなり仕事みつけれんから、まず埼玉のキャノンの請負工場で派遣で入って、社宅のような小さいアパートから毎日、単純作業の仕事をして、当然やりがいもないのにその上、給料も色々家賃とか必要経費引いていったら貯金もできんし、ああ、東京でなんかかなんとなくクリエイティブでかっこええ仕事して、いつかは俺も勝ち組に…! 的な 話が続いていきつつ、
彼はいつしか、格差反対系のデモとかに出て、ほんで、メディアの人たちに「フリーター代表」みたいな形でバンバン取材されて…
あ、この映画、ある意味、彼が「労働」の外の「活動」へと華々しく上っていくある種の「サクセスストーリー」やなと。
つまり彼は、非正規の「(賃金)労働」という超退屈でかといって儲からない立場の悩みを、「活動」の原点にすることで、生き生きと社会とコミットする接点をそっちの世界で作りあげていくのだ。
とても印象深いシーンがある。
彼を取材するNHKのディレクターが登場するんだけど、そのNHKのDさんが、彼のことを「悲劇のどん底フリーター」みたいな、またわかりやすいマス的な取り上げ方をするわけです。そこで彼はそれはそれでうっとおしいなみたいに感じて、「こんな生活やけど自分で選んでフリーターやってるから、あんまそんな悲劇っぽく画一化すんなよ」と思い、NHKのDさんとの対話に臨むシーン。そこには超勝ち組のはずのNHKのDさんですら「やめたいと思うことしょっちゅう」「9時17時の仕事にあこがれる」などなどの発言がポロポロ。
そう。彼も「労働」してるんだ。
「勝ち組」か「負け組」かのモノサシは、結局「金」なんかとおもいきや、単純にお金もっている人が精神的にも完璧ハッピーなわけではなく、「労働」という仕事をしている、もしくは自分の仕事を「これって労働だよね」って思ってしまう時点で、もうあんま比べても意味ないみたいな。
これは、格差問題とは別の、もっと根本の話。
この映画の視点で大事なのは、おそらく思うに、主人公の岩淵さんの置かれている「状況」ではなく、その状況をわざわざ「表現」したことにあるのではないか。
だって、よくよく考えてみればこの人、普通にプロフ見るに結構映画撮って入賞とかしてはる「アーティスト」さんなのですよね。芸大出身だし。
これ、どっかで見たことある生活構造。バンドマンがコンビニでバイトする。絵描きが喫茶店でバイトする。映像作家が工場でハケンする。という見方すらできるのではないだろうか。穿ってるかな。
まぁその構造は言い過ぎにしても、彼は、カメラを持っていた。そこにカメラがある事実。
少なくともこの映画に出てくる映像は、全て彼がカメラを回し続けた証拠であり、正直、こんな活動的なフリーターはあまりいない。彼はその時点である意味では「エリート」なのだ。
しかもフリーターという状況の他人を素材にするのではなく、自分の置かれている状況をみずから括弧に入れ、対象化して表現する。
これはひょっとしたら彼なりの「フィクション」なのかもしれない。だとしたらすごい面白い。「労働」という状況を自ら選んで、そのことを「表現」に結びつけ、「労働」の外の活動領域を次々と広げて有名になってってるのだから。ある意味、彼は違うものさしでは「勝ち組」なのでは!?
いや、もうこの「勝ち組」「負け組」話はやめよう。
だって、オルタナティブなモノサシであっても、モノサシの時点で、もう計っちゃう存在やから。意味ないかも。
とにかく、単純に格差問題提起の映画として語るにはもったいない程、ビミョウで(いい意味で)、頭が痒くなる作品だった。
もし何か機会があれば皆さんも観てみてください。
映画。ひとまず下に予告編を貼ろう。
ええっと。まず、単純ではない映画で、面白かった。
正直、「この格差社会なんとかしようや!俺ら、全然仕事ないし、給料安いし!デモや!デモ!」ってな乗りだけの映画やったら、どうしようと思って、観てみたのだけれど、話はそう単純な若者のネオリベ批判ではない。
一見、最初はそう思わせるが、話が進行していくと一筋縄ではいかない色んな視点が織り交ざってくる。そして映像も上手い。
仙台の出身の岩淵さんという20代前半の主人公が東京にあこがれて、でも東京でいきなり仕事みつけれんから、まず埼玉のキャノンの請負工場で派遣で入って、社宅のような小さいアパートから毎日、単純作業の仕事をして、当然やりがいもないのにその上、給料も色々家賃とか必要経費引いていったら貯金もできんし、ああ、東京でなんかかなんとなくクリエイティブでかっこええ仕事して、いつかは俺も勝ち組に…! 的な 話が続いていきつつ、
彼はいつしか、格差反対系のデモとかに出て、ほんで、メディアの人たちに「フリーター代表」みたいな形でバンバン取材されて…
あ、この映画、ある意味、彼が「労働」の外の「活動」へと華々しく上っていくある種の「サクセスストーリー」やなと。
つまり彼は、非正規の「(賃金)労働」という超退屈でかといって儲からない立場の悩みを、「活動」の原点にすることで、生き生きと社会とコミットする接点をそっちの世界で作りあげていくのだ。
とても印象深いシーンがある。
彼を取材するNHKのディレクターが登場するんだけど、そのNHKのDさんが、彼のことを「悲劇のどん底フリーター」みたいな、またわかりやすいマス的な取り上げ方をするわけです。そこで彼はそれはそれでうっとおしいなみたいに感じて、「こんな生活やけど自分で選んでフリーターやってるから、あんまそんな悲劇っぽく画一化すんなよ」と思い、NHKのDさんとの対話に臨むシーン。そこには超勝ち組のはずのNHKのDさんですら「やめたいと思うことしょっちゅう」「9時17時の仕事にあこがれる」などなどの発言がポロポロ。
そう。彼も「労働」してるんだ。
「勝ち組」か「負け組」かのモノサシは、結局「金」なんかとおもいきや、単純にお金もっている人が精神的にも完璧ハッピーなわけではなく、「労働」という仕事をしている、もしくは自分の仕事を「これって労働だよね」って思ってしまう時点で、もうあんま比べても意味ないみたいな。
これは、格差問題とは別の、もっと根本の話。
この映画の視点で大事なのは、おそらく思うに、主人公の岩淵さんの置かれている「状況」ではなく、その状況をわざわざ「表現」したことにあるのではないか。
だって、よくよく考えてみればこの人、普通にプロフ見るに結構映画撮って入賞とかしてはる「アーティスト」さんなのですよね。芸大出身だし。
これ、どっかで見たことある生活構造。バンドマンがコンビニでバイトする。絵描きが喫茶店でバイトする。映像作家が工場でハケンする。という見方すらできるのではないだろうか。穿ってるかな。
まぁその構造は言い過ぎにしても、彼は、カメラを持っていた。そこにカメラがある事実。
少なくともこの映画に出てくる映像は、全て彼がカメラを回し続けた証拠であり、正直、こんな活動的なフリーターはあまりいない。彼はその時点である意味では「エリート」なのだ。
しかもフリーターという状況の他人を素材にするのではなく、自分の置かれている状況をみずから括弧に入れ、対象化して表現する。
これはひょっとしたら彼なりの「フィクション」なのかもしれない。だとしたらすごい面白い。「労働」という状況を自ら選んで、そのことを「表現」に結びつけ、「労働」の外の活動領域を次々と広げて有名になってってるのだから。ある意味、彼は違うものさしでは「勝ち組」なのでは!?
いや、もうこの「勝ち組」「負け組」話はやめよう。
だって、オルタナティブなモノサシであっても、モノサシの時点で、もう計っちゃう存在やから。意味ないかも。
とにかく、単純に格差問題提起の映画として語るにはもったいない程、ビミョウで(いい意味で)、頭が痒くなる作品だった。
もし何か機会があれば皆さんも観てみてください。
by yamatogawarecord
| 2008-03-14 03:44