2014年 09月 24日
甲府で“ハザマ”を垣間みる。公私、メディア、グラグラ、仲間 |
先々週末、甲府で開催されている「こうふのまちの芸術祭」のトークプログラムに出演してきました。
「甲州緊急ミーティング」(http://kofuart.net/?eid=60)
この企画の発端は芸術祭の運営メンバーの飯田圭くんのある思いからスタートしています。彼は山梨中央銀行に勤めながら、金融人として、あるいは組織人として、自分のジモトである甲府に対してできることと、個人として参加している芸術祭という関係性の中でできることの、そのハザマでいろいろな可能性を思い描き、時に行き詰まり、そこからその問いへの追求をさらに前に進め、といったような逡巡と実践を繰り返してきた20代半ばの若者なのです。
彼とは二年前に、僕がおなじくこの芸術祭に招かれた際に会っていて、僕はそのとき、お世話になっている、りそな銀行REENALプロジェクトの藤原明さんの話をした(らしい)。
そしてそのことを飯田くんは覚えていて、藤原さんのような、「金融の本質」を突き詰めながら地域経済に関わり、大きな組織に所属する立場を存分に生かしながらも公私も超越していくその生き方・働き方に対して、同じ金融の人としてとても憧れを抱いていたとのことだった。
僕は公私や既存の専門領域を超えながら、自分の信念と表現を愚直に突き詰めることで、時に周りから「で、お前結局、何屋さんやねん!?/結局、何がやりたいの…?」って突っ込まれながらもなんとかいろいろやってきている人たちを「コミュニティ難民」というコンセプトで浮き彫りにしようと、いままさに筆をとっているわけだけど、この藤原さんと飯田くんの問いかけに対して、自分なりに答えるために、この「甲州緊急ミーティング テーマ:お金と地域を考える」のコーディネーターを引き受けることになったのだった。そして、山梨中央銀行からは営業統括部公務室の室長で山梨大学などとの連携を通じて地域に関わる酒井信さん、そして数年前から僕の友人でもあり、富士吉田市政策企画課で様々なまちづくりに関わり、民間なのか行政マンなのかよくわからない絶妙な立ち位置で新しい民間基金の法人 みんなの貯金箱財団を立ち上げた荒井慶悟くんらとトークをしたわけだ。
正直、このブログで「このトークで何が語られたのかのレポート」は、ファシリしてた立場として逆に記憶が混沌としてて書けない……っんすけど(すいやせん!そこはきっと後日飯田くんが書いてくれるでしょう)、ポイントは
・公私融合的に様々な立場を動員させて、自分の愛するコミュニティにかかわっていくこと
・「お金」は大事。でも「お金」を集めたり工面するうえでのあれやこれやの合作の道程にこそ、色んな「資源(人とか場とか情報とか)」が見出されていくから、それさえ見落とさなければ、実は絶対「お金」がないとできないということではない。(あるにこしたことはないけどそれが本質ではない)
・地方創生とか大きな流れがありながらも、自分たちの活動にどれだけリアリティをもってボトムアップで思考と実践を積み上げていけるか。
みたいなことが各々の事例から語られました。
飯田くんに対して会場からも「結局、藤原さんみたいになれるの? なりたいの?」みたいなダイレクトな質問があがったんだけど、僕もその時発言させてもらったこととして、「誰かを目指す」というそのあり方そのものはやはり本当は違うんだろうなって。参考にはできるけど、自分ならではの固有の文脈をフルに開花させることで、先陣とそもそも比べることのできない独自の活動が展開されていくという当たり前のことを感じたんですね。具体的にはREENALの取り組みのように、大阪のような主に都市部でやれること(藤原さんはもちろん愛媛など大阪以外にも関わってはるんですけど)と甲府でやることの違い。甲府といってもIターン組がやること飯田くんのようにUターン組がやることの違い、藤原さんのようにすべての活動において「りそなの藤原です」というのか、「山梨中央銀行の職員でもあり芸術祭のスタッフでもある飯田です」というのかの公私の組み合わせの態度など、あと飯田くんのその若さとか。いろんな要素において、きっと彼にしかできないような様々な領域やステークホルダー間の「触媒」の目指し方があるんだろうなってことを、語り合ったりしました。
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一方でトークには、某テレビ局が取材についていて、会場がかなり物々しい雰囲気に。
飯田くんのジモトで奮闘する姿を「U29の頑張っている若者」として取材をしているところに、僕らが協力するというスタンス。事前にディレクタ―の方から電話でも相談を受けていたしそれ自体は何も問題ないんですけど、実はいろいろ「企画に対する干渉」という意味で思うことがありました。
端的には、企画のタイムスケジュールや、内容の展開、会場の構成にまで口を出し始めたこと。
会場の構成に関しては口に出すレベルを超えてほとんど「主催者」のように仕切り始めたときには、正直僕からもカメラマンの方に「その配置はお客さんに対してのことですが、それとも“画”のことを言って指示してはるんですか?」と言ったところ、彼は言葉に詰まってましたが、ちょっと自嘲気味に「まぁ、カメラ的なこともあってすいませんねぇ」って苦笑いで言われたときには、その態度がきっと色んな現場で常態化しているんだろうなと思ってやっぱりなんだかなぁと思わされたことがあります。
僕はここで決して単にマスメディア批判をしたいわけではない。僕もこの局さんにはよく取材されてますし、10月にも別の番組に出演させていただくし、本当に面白い番組だってたくさん作ってはります。僕の友人も含めてステキな制作ディレクタ―さんもたくさんおられます。でも、少なくとも「メディアの方こそが現実を引っ張る」という「確かにその面があるよな」という暗黙の了解を、無碍に促進させるような態度はやっぱりマスメディアの方はもっと慎むべきだし、自分たちの影響力の大きさをわかっているがゆえに取るべき態度は、もっと取材対象である現場のライブ感に対してリスペクトを払う方向にこそ切り替えられないといけないと思います。自分も文筆や出版を通じて、メディアに関わるようになって小さいながらもすごくそのことは感じているし、自分はジャーナリスティックな表現方法から離れながら出来事を勃発させ、またそれを発信している立場としては、本当にこういうことに敏感にならざるをえないんです。
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次の日、こうふのまちの芸術祭の中心人物でもある五味文子(53235)ちゃんが商店街の空き店舗でやっている「風林火山商店街の商店街ラジオ」の記念すべき第一回目に出演させてもらいました。文ちゃんもそのことを以下のブログで書いてくれいます。
http://kofuart.net/?eid=74
彼女の書いたくれた内容に対する応答のようになるんだけど、僕は本当によく「(昔に比べて)変わったね」って言われることがここ3年くらい多いんですね。多分、誤解を恐れずにあえてこう言いますけど、「(良い意味でも、時に皮肉っぽい意味でも)社会的になったね」ということなんだと受け止めています。
音楽から文筆の方に比重が傾いたり、アートプロジェクトみたいな文化事業という「ジャンル」の枠から意図的に離れていったり、表現を軸にしながらも福祉や地域文脈の仕事や講演に関わったりすることが多くなったからだと思うけど、僕の中ではほんとうになんにも変わってなくて。以前よりも一層「混沌」と「難民化」は進んでるとすら思っています。そのことをこのラジオ(音声アップされてるから良かったら聴いて下さい)で語らせてもらったんだけど、なかなかこういうことってちゃんと言葉にして語っていかないとね、やっぱり人は表に出る仕事でその人の立ち位置を見定めるもんだから、その根本で何を伝えたくてこんな動きをわざわざやっているかってことって、ほんまにほんまに伝わらんわな。(だからまたそのことについて本書いているんだけど)
モラトリアムをちゃんと真っ向から肯定すること。
フラフラグラグラをデフォルトにすることに怯えないこと。
そこに、僕は表現と仕事をぐちゃぐちゃに融合させて、よくわからない存在のままで社会に浮き立つ、その実践を永遠、身体切り刻んでやっているしやっていくつもり。だから文ちゃんが美術やって、音楽やって、芸術祭やって、海外青年協力隊で教師やって、帰ってきて整体やって、みたいなことはまったく不思議でもなんでもなく、真っ当だと心から思っている。そのことはりそなの藤原明さんにも見え方は「大企業の金融マンで活躍している人=社会的」って見えやすいかもしれないけど、本質はすごく通底していてそこをみんな見落とさないことが大事。
ラジオの最後は僕もギターと太鼓を持ってライブ。仲間は各地にいる。ここにもいる。僕にとっての甲府は地域コミュニティとしての甲府ではやはりなくて(地域コミュニティとして盛り上がることを否定してないよ)、やはりそこにいるあなたたちとの今この瞬間の関係性でしかないんです。感謝します。
いま、飯田くんたちが中心になって僕の近刊の出版イベントを企画してくれているみたい。本当にうれしい。また近々、会おうね。
「甲州緊急ミーティング」(http://kofuart.net/?eid=60)
この企画の発端は芸術祭の運営メンバーの飯田圭くんのある思いからスタートしています。彼は山梨中央銀行に勤めながら、金融人として、あるいは組織人として、自分のジモトである甲府に対してできることと、個人として参加している芸術祭という関係性の中でできることの、そのハザマでいろいろな可能性を思い描き、時に行き詰まり、そこからその問いへの追求をさらに前に進め、といったような逡巡と実践を繰り返してきた20代半ばの若者なのです。
彼とは二年前に、僕がおなじくこの芸術祭に招かれた際に会っていて、僕はそのとき、お世話になっている、りそな銀行REENALプロジェクトの藤原明さんの話をした(らしい)。
そしてそのことを飯田くんは覚えていて、藤原さんのような、「金融の本質」を突き詰めながら地域経済に関わり、大きな組織に所属する立場を存分に生かしながらも公私も超越していくその生き方・働き方に対して、同じ金融の人としてとても憧れを抱いていたとのことだった。
僕は公私や既存の専門領域を超えながら、自分の信念と表現を愚直に突き詰めることで、時に周りから「で、お前結局、何屋さんやねん!?/結局、何がやりたいの…?」って突っ込まれながらもなんとかいろいろやってきている人たちを「コミュニティ難民」というコンセプトで浮き彫りにしようと、いままさに筆をとっているわけだけど、この藤原さんと飯田くんの問いかけに対して、自分なりに答えるために、この「甲州緊急ミーティング テーマ:お金と地域を考える」のコーディネーターを引き受けることになったのだった。そして、山梨中央銀行からは営業統括部公務室の室長で山梨大学などとの連携を通じて地域に関わる酒井信さん、そして数年前から僕の友人でもあり、富士吉田市政策企画課で様々なまちづくりに関わり、民間なのか行政マンなのかよくわからない絶妙な立ち位置で新しい民間基金の法人 みんなの貯金箱財団を立ち上げた荒井慶悟くんらとトークをしたわけだ。
正直、このブログで「このトークで何が語られたのかのレポート」は、ファシリしてた立場として逆に記憶が混沌としてて書けない……っんすけど(すいやせん!そこはきっと後日飯田くんが書いてくれるでしょう)、ポイントは
・公私融合的に様々な立場を動員させて、自分の愛するコミュニティにかかわっていくこと
・「お金」は大事。でも「お金」を集めたり工面するうえでのあれやこれやの合作の道程にこそ、色んな「資源(人とか場とか情報とか)」が見出されていくから、それさえ見落とさなければ、実は絶対「お金」がないとできないということではない。(あるにこしたことはないけどそれが本質ではない)
・地方創生とか大きな流れがありながらも、自分たちの活動にどれだけリアリティをもってボトムアップで思考と実践を積み上げていけるか。
みたいなことが各々の事例から語られました。
飯田くんに対して会場からも「結局、藤原さんみたいになれるの? なりたいの?」みたいなダイレクトな質問があがったんだけど、僕もその時発言させてもらったこととして、「誰かを目指す」というそのあり方そのものはやはり本当は違うんだろうなって。参考にはできるけど、自分ならではの固有の文脈をフルに開花させることで、先陣とそもそも比べることのできない独自の活動が展開されていくという当たり前のことを感じたんですね。具体的にはREENALの取り組みのように、大阪のような主に都市部でやれること(藤原さんはもちろん愛媛など大阪以外にも関わってはるんですけど)と甲府でやることの違い。甲府といってもIターン組がやること飯田くんのようにUターン組がやることの違い、藤原さんのようにすべての活動において「りそなの藤原です」というのか、「山梨中央銀行の職員でもあり芸術祭のスタッフでもある飯田です」というのかの公私の組み合わせの態度など、あと飯田くんのその若さとか。いろんな要素において、きっと彼にしかできないような様々な領域やステークホルダー間の「触媒」の目指し方があるんだろうなってことを、語り合ったりしました。
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一方でトークには、某テレビ局が取材についていて、会場がかなり物々しい雰囲気に。
飯田くんのジモトで奮闘する姿を「U29の頑張っている若者」として取材をしているところに、僕らが協力するというスタンス。事前にディレクタ―の方から電話でも相談を受けていたしそれ自体は何も問題ないんですけど、実はいろいろ「企画に対する干渉」という意味で思うことがありました。
端的には、企画のタイムスケジュールや、内容の展開、会場の構成にまで口を出し始めたこと。
会場の構成に関しては口に出すレベルを超えてほとんど「主催者」のように仕切り始めたときには、正直僕からもカメラマンの方に「その配置はお客さんに対してのことですが、それとも“画”のことを言って指示してはるんですか?」と言ったところ、彼は言葉に詰まってましたが、ちょっと自嘲気味に「まぁ、カメラ的なこともあってすいませんねぇ」って苦笑いで言われたときには、その態度がきっと色んな現場で常態化しているんだろうなと思ってやっぱりなんだかなぁと思わされたことがあります。
僕はここで決して単にマスメディア批判をしたいわけではない。僕もこの局さんにはよく取材されてますし、10月にも別の番組に出演させていただくし、本当に面白い番組だってたくさん作ってはります。僕の友人も含めてステキな制作ディレクタ―さんもたくさんおられます。でも、少なくとも「メディアの方こそが現実を引っ張る」という「確かにその面があるよな」という暗黙の了解を、無碍に促進させるような態度はやっぱりマスメディアの方はもっと慎むべきだし、自分たちの影響力の大きさをわかっているがゆえに取るべき態度は、もっと取材対象である現場のライブ感に対してリスペクトを払う方向にこそ切り替えられないといけないと思います。自分も文筆や出版を通じて、メディアに関わるようになって小さいながらもすごくそのことは感じているし、自分はジャーナリスティックな表現方法から離れながら出来事を勃発させ、またそれを発信している立場としては、本当にこういうことに敏感にならざるをえないんです。
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次の日、こうふのまちの芸術祭の中心人物でもある五味文子(53235)ちゃんが商店街の空き店舗でやっている「風林火山商店街の商店街ラジオ」の記念すべき第一回目に出演させてもらいました。文ちゃんもそのことを以下のブログで書いてくれいます。
http://kofuart.net/?eid=74
彼女の書いたくれた内容に対する応答のようになるんだけど、僕は本当によく「(昔に比べて)変わったね」って言われることがここ3年くらい多いんですね。多分、誤解を恐れずにあえてこう言いますけど、「(良い意味でも、時に皮肉っぽい意味でも)社会的になったね」ということなんだと受け止めています。
音楽から文筆の方に比重が傾いたり、アートプロジェクトみたいな文化事業という「ジャンル」の枠から意図的に離れていったり、表現を軸にしながらも福祉や地域文脈の仕事や講演に関わったりすることが多くなったからだと思うけど、僕の中ではほんとうになんにも変わってなくて。以前よりも一層「混沌」と「難民化」は進んでるとすら思っています。そのことをこのラジオ(音声アップされてるから良かったら聴いて下さい)で語らせてもらったんだけど、なかなかこういうことってちゃんと言葉にして語っていかないとね、やっぱり人は表に出る仕事でその人の立ち位置を見定めるもんだから、その根本で何を伝えたくてこんな動きをわざわざやっているかってことって、ほんまにほんまに伝わらんわな。(だからまたそのことについて本書いているんだけど)
モラトリアムをちゃんと真っ向から肯定すること。
フラフラグラグラをデフォルトにすることに怯えないこと。
そこに、僕は表現と仕事をぐちゃぐちゃに融合させて、よくわからない存在のままで社会に浮き立つ、その実践を永遠、身体切り刻んでやっているしやっていくつもり。だから文ちゃんが美術やって、音楽やって、芸術祭やって、海外青年協力隊で教師やって、帰ってきて整体やって、みたいなことはまったく不思議でもなんでもなく、真っ当だと心から思っている。そのことはりそなの藤原明さんにも見え方は「大企業の金融マンで活躍している人=社会的」って見えやすいかもしれないけど、本質はすごく通底していてそこをみんな見落とさないことが大事。
ラジオの最後は僕もギターと太鼓を持ってライブ。仲間は各地にいる。ここにもいる。僕にとっての甲府は地域コミュニティとしての甲府ではやはりなくて(地域コミュニティとして盛り上がることを否定してないよ)、やはりそこにいるあなたたちとの今この瞬間の関係性でしかないんです。感謝します。
いま、飯田くんたちが中心になって僕の近刊の出版イベントを企画してくれているみたい。本当にうれしい。また近々、会おうね。
by yamatogawarecord
| 2014-09-24 14:24