2012年 11月 15日
根をもた(て)ないことと“弱い”表現について |
主体の獲得、立脚点の日々の確認、これは結構難しいことだなぁと思う。
例えば、仕事という考え方ひとつとっても、人は目に見える表現のみについつい認識を奪われてしまって、その表現・成果物が何であるかによって“職”、“業”というものが決まり、他人もそれで自分をみるし、自分もそれで相手を見るし、そして、いつしか、自分自身のことも、それが“自分”の立脚点として看做してしまう。
表現と肩書きが手を組む。
表現が肩書きを生み、肩書きが表現を精錬もするし固定もする。
そして表現が肩書きに自負をもたらせ、そして自らのアイデンティティの大部分をその肩書き上の属性(平野啓一郎さん的に言えば、あらゆる「分人」の中の一分人)が占めることとなる。
“根をもつこと”
そして逆に
“根こぎにされること”
などは、シモーヌ・ヴェイユの概念だけど(彼女の文章、なかなか頭の中に入ってこなくて、自分に理解力がないからやろうけど、読んでは断念してる)
僕は、ほとんどあらゆるものから、根こぎされているような環境の中で、なんとなく、根こぎされた者同士のつなぎをやって、「宙に根ざす」みたいなイメージで生きている気がする。
そして、そのつなぎの作用は、文化という漠然とした、個人の妄想が生々しく社会に漏れ出した状況、そこを足がかりに行っている気がするし、でもそれ自体なんでやっているのかというと、多分、それしかやることがないからだと思う。
土地や職業や、国や家族や趣味などに、根をもって生きている人を羨ましいなと思うとともに、「自分にはずっとできないんだろうな」と思ってしまったり。
主体が主体として、何の媒介も通さずに、他人と関わったりすることってまぁ、絶対的にできないだろうし、人間は言葉を使っている時点で、それはもう媒介してるわけだし。
だから、世の中に自明のように存在している環境ひとつひとつの意味をせめて勝手に組み替えて、—新しく創るのではなくー つまり“再編集”して、生きていくことを愚直に、あらゆる手を尽くしてやっていこうと思うけど、この場合の表現って、きっと“弱い表現”なんだと。
それは芸術的な意味合いでの表現としても、何かを文字通り表すという意味での表現としても、“弱い表現”なんだと。
ただ生きていくというだけだしね。
それがたまに音楽になったり、テクストになったり、祭りになったりすれば、まぁ“強く”見えるかもしれんけど、それが外部に表れないとしても、むしろ外部に表出しない何かが大事なんだとも思う。それは他人と付き合う時に、その相手の有り様に対する想像力にも直結する話で、むしろここが重要で、他人からたくさんのことを勝手に教えてもらえるように、お互いがそんな関係を取り持つことが日々できれば、それはそれで幸せなことだなぁ。
そういうことに気付いてる人たち同士って、不思議といつか必ず相会う時がくるんだよね、というのは経験上からわかるし、同じ人物との“出会い直し”というのも今後もあるだろうし、それはとっても楽しみなことだと思うのであります。
例えば、仕事という考え方ひとつとっても、人は目に見える表現のみについつい認識を奪われてしまって、その表現・成果物が何であるかによって“職”、“業”というものが決まり、他人もそれで自分をみるし、自分もそれで相手を見るし、そして、いつしか、自分自身のことも、それが“自分”の立脚点として看做してしまう。
表現と肩書きが手を組む。
表現が肩書きを生み、肩書きが表現を精錬もするし固定もする。
そして表現が肩書きに自負をもたらせ、そして自らのアイデンティティの大部分をその肩書き上の属性(平野啓一郎さん的に言えば、あらゆる「分人」の中の一分人)が占めることとなる。
“根をもつこと”
そして逆に
“根こぎにされること”
などは、シモーヌ・ヴェイユの概念だけど(彼女の文章、なかなか頭の中に入ってこなくて、自分に理解力がないからやろうけど、読んでは断念してる)
僕は、ほとんどあらゆるものから、根こぎされているような環境の中で、なんとなく、根こぎされた者同士のつなぎをやって、「宙に根ざす」みたいなイメージで生きている気がする。
そして、そのつなぎの作用は、文化という漠然とした、個人の妄想が生々しく社会に漏れ出した状況、そこを足がかりに行っている気がするし、でもそれ自体なんでやっているのかというと、多分、それしかやることがないからだと思う。
土地や職業や、国や家族や趣味などに、根をもって生きている人を羨ましいなと思うとともに、「自分にはずっとできないんだろうな」と思ってしまったり。
主体が主体として、何の媒介も通さずに、他人と関わったりすることってまぁ、絶対的にできないだろうし、人間は言葉を使っている時点で、それはもう媒介してるわけだし。
だから、世の中に自明のように存在している環境ひとつひとつの意味をせめて勝手に組み替えて、—新しく創るのではなくー つまり“再編集”して、生きていくことを愚直に、あらゆる手を尽くしてやっていこうと思うけど、この場合の表現って、きっと“弱い表現”なんだと。
それは芸術的な意味合いでの表現としても、何かを文字通り表すという意味での表現としても、“弱い表現”なんだと。
ただ生きていくというだけだしね。
それがたまに音楽になったり、テクストになったり、祭りになったりすれば、まぁ“強く”見えるかもしれんけど、それが外部に表れないとしても、むしろ外部に表出しない何かが大事なんだとも思う。それは他人と付き合う時に、その相手の有り様に対する想像力にも直結する話で、むしろここが重要で、他人からたくさんのことを勝手に教えてもらえるように、お互いがそんな関係を取り持つことが日々できれば、それはそれで幸せなことだなぁ。
そういうことに気付いてる人たち同士って、不思議といつか必ず相会う時がくるんだよね、というのは経験上からわかるし、同じ人物との“出会い直し”というのも今後もあるだろうし、それはとっても楽しみなことだと思うのであります。
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by yamatogawarecord
| 2012-11-15 18:03