2012年 11月 15日
「激団しろっとそん」を観て語りたいこと |
「激団しろっとそん」の公演DVD「不思議の国の二人のアリス」を南森町の古本屋 メガネヤで観た。
http://sirottoson.bake-neko.net/
前々からメガネヤ 市川ヨウヘイ君とこの劇団について語りあい、youtubeにあがっている動画を観たりしながら、「ああ…」と色々勝手な妄想を膨らませながら、なかなか言葉にならない感じを楽しんでいたり。よう考えたらここのリーダーの大牧ぽるんさんとは、たまたま彼女がメガネヤに遊びにきた際に、僕の展示「KPPL(借りパクプレイリスト)」のイラスト書きのお手伝いをしてもらったこともあって、なかなか不思議な空気感のある面白い娘さんだなぁと思ってはいたんだけど。
で、感想。
なんと言うか、関心は物語の外側にあって。
勝手な見方だけど、「演劇をやっている様子を観ているような感じ」がすごく漂っている。
もちろんDVDはお客さんの頭も映っているような固定アングルの、時々、照明の都合で照度がぼけまくったりするような、そんな記録映像(でも販売されている。そしてエンドロールなどはちゃんと編集されている)って感じのものを通じて観てるから、余計にそんな空気が出るんだけど、でも問題はきっと、劇場で生で観たって同じ様に「演劇をやっている様子を観ているような感じ」というメタな感覚は確実に起こるやろうというような謎の確信がある。
「演劇を頑張ってやっている女子たち」という状況を、別に誰かが意図的に創り出しているわけでもなく、ただ、彼女達は普通に高校時代からの友人らしく、ずっと好きなことを好きなままに、そしてお客さんに楽しんでもらうためにただやっているんだと思う。(そこは、僕が半年ほど前から推しているKGY40Jr.みたいに、ちょっと意図的な“大人”が絡んでいるのとは違う)でも、そういう風に、「誰かの手が加わっているのでは!?」というような、外部性を勝手に感じさせられ、そして一回そう見えてしまうと、中身の役者の振る舞いも踊りも歌もぜんぶ“そういうこと”のような、“その意図のためにある”ような、妙な完成度を勝手に感じてしまう。これはいかに。なんというか、アウトプットの次数が一個繰り下がっているものが演劇そのもので、そこから一個次数を繰り上げて「次数0」にして観る状態が、その観ているお客さんも含めた、あるいは彼女たちの日常生活とかに対する想像も含めた、そういう表現として出来上がっているように思えてくると言えばええんやろうか。
DVDのエンティングに、エンドロールとともに公演のダイジェスト映像が流れる。それは本番のダイジェスト映像なんだけど、それって「さっき観たやん!」って突っ込みたくなるんだけど、でもよくあるテレビドラマ的なパターンだと「そこはNGシーンとか、楽屋のシーンとか流すとこよね」って思うけど、「そうか、そもそも今までの全部NGやし全部楽屋なんかも…」って感覚で観ると…
いや、要は面白いんですよ。
彼女たちは演劇をやりたくてやってはるやろうし、そして歌も歌いたいし(演劇の中身そのものはとてもミュージカル的)、きっと物販も作りたいし、ブログもやる。
そして彼女達にはもちろんファンもいる。関西小劇場界で頑張っているし、僕が以前、関係者として劇評ブログを書いていた應典院主催の「Space×Drama」にも出演するなど躍進していってると思う。でも、市川君が最初にこのような見方、楽しみ方を感じ、そして僕も含めた数人にその良さを伝えることがないと、きっとなかなかこういう視点で彼女達の表現を語ることはこれからもないんじゃないかと思う。(「前回よりも上達していたね」とか、そういう劇評はあるやろうけど)
関西小劇場の中にどれくらい、外部的な視点で批評をする人間が観客の中に交じっているかどうかは、僕にはわからないけど、でも“演劇”というジャンルで彼女達の今語って来たような魅力を語るには、そのジャンルに対する批評のレンジから漏れるようなことを、“本人たちが意図的に作っていない”限りにおいては、そこに対して批評をするということがある意味できないのかもしれない。できるかもやけど意味があんのかどうか。(それは斎藤環さんのアール・ブリュットに対する「批評をせずに、関係せよ」というルールが生まれる理由と近いのかもしれない)要は、これは悪い意味ではなく、彼女達の演劇そのものは“表現”になりきってない生焼けの状態であって、でもそれをあたかもかっちり成立した“表現”に見せる装置(劇場で演劇をやること、そこにお客さんがいること、照明や音響さんなどスタッフがいたり、このDVDを編集している映像の方がいたり、グッズがあったり、ブログがあったり…)はちゃんと整っているから、やっぱりストレートに“演劇”として受け取られてそこで批評が成立しそうな気がしてしまうというかね。
だからひょっとしたら彼女達が演劇じゃなくて、日常として成立するアウトプット、たとえば…“お店”とかね。それを運営してて、そこがなんだか面白いことになっているとか、そういうことでもええのかもしれないけど、でもやっぱりそんなことをここで勝手に言うたところで、彼女達は“演劇”が好きなんですよね。
だから…
でもここで僕がこういうことを書いている自体で、もう批評をしてしまっているわけで、それがええのか悪いのか、いやわからんねんけど、ついつい“語りたくなる”作品であったことは間違いないので、機会があれば是非ご覧になってはいかがでしょうか。
っていうか頑張ってほしいです。応援してます。
http://sirottoson.bake-neko.net/
前々からメガネヤ 市川ヨウヘイ君とこの劇団について語りあい、youtubeにあがっている動画を観たりしながら、「ああ…」と色々勝手な妄想を膨らませながら、なかなか言葉にならない感じを楽しんでいたり。よう考えたらここのリーダーの大牧ぽるんさんとは、たまたま彼女がメガネヤに遊びにきた際に、僕の展示「KPPL(借りパクプレイリスト)」のイラスト書きのお手伝いをしてもらったこともあって、なかなか不思議な空気感のある面白い娘さんだなぁと思ってはいたんだけど。
で、感想。
なんと言うか、関心は物語の外側にあって。
勝手な見方だけど、「演劇をやっている様子を観ているような感じ」がすごく漂っている。
もちろんDVDはお客さんの頭も映っているような固定アングルの、時々、照明の都合で照度がぼけまくったりするような、そんな記録映像(でも販売されている。そしてエンドロールなどはちゃんと編集されている)って感じのものを通じて観てるから、余計にそんな空気が出るんだけど、でも問題はきっと、劇場で生で観たって同じ様に「演劇をやっている様子を観ているような感じ」というメタな感覚は確実に起こるやろうというような謎の確信がある。
「演劇を頑張ってやっている女子たち」という状況を、別に誰かが意図的に創り出しているわけでもなく、ただ、彼女達は普通に高校時代からの友人らしく、ずっと好きなことを好きなままに、そしてお客さんに楽しんでもらうためにただやっているんだと思う。(そこは、僕が半年ほど前から推しているKGY40Jr.みたいに、ちょっと意図的な“大人”が絡んでいるのとは違う)でも、そういう風に、「誰かの手が加わっているのでは!?」というような、外部性を勝手に感じさせられ、そして一回そう見えてしまうと、中身の役者の振る舞いも踊りも歌もぜんぶ“そういうこと”のような、“その意図のためにある”ような、妙な完成度を勝手に感じてしまう。これはいかに。なんというか、アウトプットの次数が一個繰り下がっているものが演劇そのもので、そこから一個次数を繰り上げて「次数0」にして観る状態が、その観ているお客さんも含めた、あるいは彼女たちの日常生活とかに対する想像も含めた、そういう表現として出来上がっているように思えてくると言えばええんやろうか。
DVDのエンティングに、エンドロールとともに公演のダイジェスト映像が流れる。それは本番のダイジェスト映像なんだけど、それって「さっき観たやん!」って突っ込みたくなるんだけど、でもよくあるテレビドラマ的なパターンだと「そこはNGシーンとか、楽屋のシーンとか流すとこよね」って思うけど、「そうか、そもそも今までの全部NGやし全部楽屋なんかも…」って感覚で観ると…
いや、要は面白いんですよ。
彼女たちは演劇をやりたくてやってはるやろうし、そして歌も歌いたいし(演劇の中身そのものはとてもミュージカル的)、きっと物販も作りたいし、ブログもやる。
そして彼女達にはもちろんファンもいる。関西小劇場界で頑張っているし、僕が以前、関係者として劇評ブログを書いていた應典院主催の「Space×Drama」にも出演するなど躍進していってると思う。でも、市川君が最初にこのような見方、楽しみ方を感じ、そして僕も含めた数人にその良さを伝えることがないと、きっとなかなかこういう視点で彼女達の表現を語ることはこれからもないんじゃないかと思う。(「前回よりも上達していたね」とか、そういう劇評はあるやろうけど)
関西小劇場の中にどれくらい、外部的な視点で批評をする人間が観客の中に交じっているかどうかは、僕にはわからないけど、でも“演劇”というジャンルで彼女達の今語って来たような魅力を語るには、そのジャンルに対する批評のレンジから漏れるようなことを、“本人たちが意図的に作っていない”限りにおいては、そこに対して批評をするということがある意味できないのかもしれない。できるかもやけど意味があんのかどうか。(それは斎藤環さんのアール・ブリュットに対する「批評をせずに、関係せよ」というルールが生まれる理由と近いのかもしれない)要は、これは悪い意味ではなく、彼女達の演劇そのものは“表現”になりきってない生焼けの状態であって、でもそれをあたかもかっちり成立した“表現”に見せる装置(劇場で演劇をやること、そこにお客さんがいること、照明や音響さんなどスタッフがいたり、このDVDを編集している映像の方がいたり、グッズがあったり、ブログがあったり…)はちゃんと整っているから、やっぱりストレートに“演劇”として受け取られてそこで批評が成立しそうな気がしてしまうというかね。
だからひょっとしたら彼女達が演劇じゃなくて、日常として成立するアウトプット、たとえば…“お店”とかね。それを運営してて、そこがなんだか面白いことになっているとか、そういうことでもええのかもしれないけど、でもやっぱりそんなことをここで勝手に言うたところで、彼女達は“演劇”が好きなんですよね。
だから…
でもここで僕がこういうことを書いている自体で、もう批評をしてしまっているわけで、それがええのか悪いのか、いやわからんねんけど、ついつい“語りたくなる”作品であったことは間違いないので、機会があれば是非ご覧になってはいかがでしょうか。
っていうか頑張ってほしいです。応援してます。
by yamatogawarecord
| 2012-11-15 01:19